旅 瀬戸内(たびせと)    吉弘神社 GoogleMap    
   
   
     
     
  吉弘神社    吉弘神社本殿  
  吉弘神社 TEL0977-23-8297 〒874-0910 大分県別府市石垣西6−6−19
慶長5(1600)年9月13日、黒田如水八千の大軍と大友義統三千の軍とが、9月9日より石垣原に於いて戦い、大友軍右の翼の大将吉弘嘉兵衛統幸と黒田方の勇将井上九郎衛門元房とが雌雄を決し相打ちで両雄戦死す。
首級は実相寺山に陣を張る黒田如水の命により、吉弘の郷里屋山 筧の城に送る。
吉弘行年三十八歳、その屍は宝泉寺の僧侶、里人と共に此の地に葬り「統雲院殿傑勝運英大居士」と諡る。
その忠節を後世に伝えんと墳墓の側に一株の松を植え年を経て老松枝を垂れ、往来の旅人、参勤の諸公も此の墓前を乗り越せば必ず落馬の崇りありとて下馬の松という。
今は地名となる。
惜しいかな明治初年、心なきものが此の松を伐採したが、後に大分県知事 田中千里来りて自ら二代の松を植えその史蹟を明らかにする。
時に、前大阪府知事 林市蔵が「代から代へ緑伝えよ下馬の松」の一句を石に刻んだのが今に神社の左側にある。
神社は大正十二年九月子孫吉弘茂義氏寺 官の許を得て吉弘神社を創建す。
神社と墳墓の間の道が昔の西街道の名残をとどめている。
慶長五年九月十二日夜石垣原頭で中秋の月を仰いで統幸は一族の武将と決別の宴を催し辞世の句を残す。
  あすは誰が 草の屍やてらすらん 石垣原の今日の月影
                             堀 藤吉郎記
    ライオンズクラブ国際協会
      別府第一クラブ
(現地案内板)
 
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   油屋熊八の寄付金額を記した石碑    吉弘統幸墓    神社の境内には何故か大砲の弾が  
  油屋熊八の寄付金額を記した石碑
油屋熊八は、別府でホテルやバス事業を興して再起をすると共に、”山は富士 海は瀬戸内 湯は別府”と書いた標柱を富士山にかつぎあげて立てたり・・・。
美人バスガイドが案内する観光バスを日本ではじめてつくったり、別府の温泉湧出の多様さを利用して”地獄めぐり”で爆発的人気をあつめたり、湯布院温泉を観光地として開発したり・・・。
別府を世界の観光地にしようという夢を捨てなかった。
  別府市指定有形文化財 吉弘統幸墓 昭和47年5月10日指定
正面右に見える板碑型の墓碑が、慶長5(1600)年9月13日に行われた石垣原合戦で戦死した大友方の武将、吉弘統幸の墓といわれている。
墓は総高1.85mで、頭部は丸く加工され、前面は平滑に削り、額部の突出があるなど板碑の形式を踏まえた様子が伺える。
近くにある石殿は、吉弘統幸の二男正久が仕えた細川氏が建立したもので、正面の屋根の棟には吉弘氏の家紋が刻まれ、裏側の屋根の棟には細川氏の九曜文が刻まれている。
                 別府市
(現地案内板) 
石殿が正面にあり、墓石が右側にあるので間違いやすい。
     
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