旅 瀬戸内(たびせと)    多治比猿掛城跡 GoogleMap    
   
        
   本丸(左奥)・出丸(左手前)・物見丸(右)      
  多治比猿掛城跡(たじひさるかけじょうあと)
名称:毛利氏城跡多治比猿掛城跡
指定年月日:昭和63年2月16日
多治比猿掛城跡は、郡山城跡から多治比川に沿って、北西4q上流にある。
石州路に通じる交通の要衝で、郡山城の北方を守る重要な位置にあった。
築城から廃城までの歴史的な経緯は明らかでないが、毛利元就が青少年期を過ごした城として知られている。
元就は4歳の時、明応9(1500)年家督を長子興元に譲り、隠居した父弘元に連れられ、郡山城からこの城に移り住んで以来、大永3(1523)年27歳の時に、甥の幸松丸夭折(ようせつ)のあとをうけて、毛利家の家督を承継し郡山城に入城するまで、この城にいた。
  遺構は、標高376m、比高120mの急峻な山上に長大な平坦面と櫓台(やぐらだい)、土塁などを持った本丸、二の丸、三の丸なぢからなる。
中心部曲輪群をおき、その背後には深い堀切、尾根続きに物見丸、中心部から北下方に寺屋敷曲輪(くるわ)群があり、竪堀もみられ、谷をはさんで出丸がある。
山麓には悦叟院(えそういん)の寺跡があって、そこに毛利弘元・同夫人の墓所がある。
城跡は、良好に保存されており、戦国期の毛利氏の城のあり方をよく示す、貴重な城跡である。
  平成元年3月 
    吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板)
     多治比猿掛城跡案内図
     
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  多治比猿掛城跡  多治比猿掛城跡・毛利弘元墓所・教善寺跡入り口    毛利弘元墓所  
  多治比猿掛城跡
多治比猿掛城、本丸跡と出丸跡(右に突き出した部分、手前とその向こうの出丸が重なっている)
手前の川は多治比川。
    毛利弘元墓所(もうりひろもとぼしょ)
毛利弘元は元就の父で、応仁2(1468)年に生まれた。
9歳で毛利家を相続し郡山城主となった。
尼子と大内の狭間にいた明応9(1500)年長男興元に家督を譲り、二男の元就(4歳)を連れ、この多治比猿掛城に隠居した。
永正3(1506)年1月21日没した。
時に39歳であった。
墓所は、弘元の菩提寺、悦叟院(えそういん)跡にある。
夫人は鈴尾城(吉田町福原)主の福原広俊の娘で、文亀元年(1501)12月8日34歳、福原城内で逝去した。
大正10(1921)年福原城の福原氏墓所からこの地に移葬された。
 平成2年3月 
   吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板) 
 
           
   教善寺   多治比猿掛城跡登山道       
  浄土真宗本願寺派 教善寺 TEL0826-42-0367
〒731-0544 広島県安芸高田市吉田町多治比1746

教善寺と毛利家の関係についてはまだ調べていません。 
  多治比猿掛城跡登山道
この案内板は、教善寺のすぐそばにある。
毛利弘元墓所の駐車場からは歩いて4分程度。
 
     
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