旅 瀬戸内(たびせと)

備中高松城水攻め跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー 清水宗治 吉備路 GoogleMap
     
    備中高松城本丸跡  
     
    宗治首塚ー従四位 清水長佐衛門尉宗治公首塚ー   宗治蓮   
 

高松城水攻略史黒田官兵衛ゆかりの地
今から約400年前の天正10年(1582)織田信長の命を受けた羽柴秀吉は、備中国南東部に侵入し、毛利方の諸城を次々と攻略すると共に、3万の大軍をもって備中高松城を攻めた秀吉は、高松城の城主、清水宗治に利をもって降伏するように勧めたが、儀を重んじる宗治はこれに応じなかった。
高松城は深田や沼沢の中に囲まれた平城で、水面との比高がわずか4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。
秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に歴史にも稀な水攻めを断行し、兵糧攻めにした。
秀吉は、備前国主、宇喜多氏の家臣千原九衛門勝則を奉行とし、3千メートルに及ぶ水攻めもわずか12日間で完成させた。
てくてくロード 高松・足守ルート 

  時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込みたちまち
にして188ヘクタールの大湖水ができ、城は孤立した。6月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。
秀吉はこれをかたく秘めて毛利方の軍師、安国寺を招き「今日中に和を結べば毛利から領土は取らない。宗治の首だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説かした。
宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する」と自刃を承諾した。
時に6月4日乙の刻(午前10時)湖上に船を漕ぎ出し秀吉から贈られた酒肴で最後の宴を張り、誓願寺の曲舞を舞い、「浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」と辞世の句を残して46才を一期として見事自刃した。
現地案内板より
高松城水攻め配陣図
  高松城水攻めと中国大返しを成功に導いたのも黒田官兵衛の献策から
織田信長の命で毛利攻めに向かい、備中高松城で膠着状態になった戦況を打破する為、羽柴秀吉は高松城を水攻め(小和田哲男著「黒田如水」によれば蜂須賀正勝の献策による)にしようと堤防を築き水をせき止めようとしたがうまくせき止められなかった。
この時、土嚢を積んだ船の底に穴をあけて沈めるように献策したのが黒田官兵衛(小和田哲男著「黒田如水」より)であり、また、この水攻めの最中、本能寺の変が起こり、織田信長が横死するが、秀吉に対して毛利との和睦と明智光秀の討伐を献策し、中国大返しを成功させたのも官兵衛と云われている。

吉備路自転車道、中国自然歩道
 
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    備中高松城跡パノラマ 本丸跡(左の林部分)・二の丸跡(右)  
         
  備中高松城址資料館    二の丸から本丸を望む    清水宗治公首塚跡  
  備中高松城址公園資料館 
TEL086−287−5554 
〒701−1335 岡山市北区高松558−2
備中高松城周辺から出土された遺物や備中高松城水攻めに関する資料・模型が展示されている。
また、関連パンフレットもあり。
開館時間:10:00〜15:00
休館日:毎週月曜日、年末年始
入館料:無料
ボランティアガイド:10:00〜15:00
個人ー無料、団体ー1,000円(旅行会社実施の団体バスツアーのみ)
条件が変わる場合もありますので詳しくは資料館にお問い合わせを!
高松城址公園は常時無料開放。
交通:JR吉備線 備中高松駅から徒歩約10分
  備中高松城跡 二の丸跡から本丸跡を望む
当初この城跡を訪れた時の印象はただの広い公園ではないかと思いそれ程強い印象は受けなかった。
しかし、何度もここを訪れ、周囲の史跡を廻るうちにそこに秘めた歴史の深さに魅了されてしまった。
一か月にわたる毛利軍との攻防、水攻めという戦法の選択とその成功。信長の死、それを知ってから和睦に持ち込むまで、さらに中国大返しから山崎合戦で勝利し秀吉が天下を取るまでの一つ一つの交渉や行動はその手法やタイミングが歴史の形成に大きな影響を与えているのである。
また、鷹ノ巣城跡から見える範囲の史跡からもわかる通り、この付近一帯は、古墳時代以前からの歴史の宝庫であり、豊かな自然は訪れる人の心を慰めてくれること間違い無し。
吉備路自転車道、中国自然歩道はこれらの史跡を訪ねるには最高のルートとなっている。
吉備路の史跡めぐりには、この吉備路自転車道、中国自然歩道の利用を強くお勧め。
車の利用では味わえない魅力を再発見できることは間違いなし。
近くの宿泊施設には、温泉付きの宿泊施設「サンロード吉備路」が最適。
 
  清水宗治公首塚跡ー秀吉本陣跡近くー
天正10(1582)年6月4日、講和の条件として自刃した清水宗治公の首級は、秀吉の本陣、石井山持寶院境内に於いて、秀吉の首実検の後手厚く葬られ、一基の五輪塔を建立されたといわれている。
その後、地元の偉人を称える郷土愛は宗治公の顕彰へと進展し、明治42年に備中高松城本丸跡へ首塚の移築がなされた。
(現地案内板) 
 
       
宗治辞世の句碑 宗治蓮 宗治公胴塚
  宗治辞世の句碑
清水宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する」と自刃を承諾。
6月4日乙の刻(午前10時)湖上に船を漕ぎ出し秀吉から贈られた酒肴で最後の宴を張り、誓願寺の曲舞を舞い、「浮世をば今こそ渡れ武士の名を高松の苔に残して」と辞世の句を残して46才を一期として見事自刃した。
(現地案内板参考) 
  清水宗治 蓮
本丸と二の丸の間には「蓮池」の地名が残っており城内に蓮池が存在していたことは伝えられていた。
昭和57年に岡山市が備中高松城跡を歴史公園とするため沼の復元をしたところ当時のものと思われる蓮が自然に生えてきた。
400年の時を経て地下に眠っていた蓮が再び立派な花を付けたものと考えられる。
(現地案内版を参考) 
  胴塚の由来
天正10年(1582)6月4日、自決した高松城主、清水長左衛門宗治公の首級なき胴体遺体は舟上のまま本丸に帰ってきた。
迎える家臣、身内の者共、抑えきれぬ涙に感極まって一同の嗚咽がおこった。やがて回向の声に包まれ、池の下丸、この地に手厚く葬られた。
その墓穴に臨んだ公の介錯人国府市佑は己が刀で己が首を切り、そのまま落ちこんで自刃し亡き公の後を追った。
(現地案内版より抜粋)
この胴塚は、備中高松城水攻め跡公園のすぐ北の集落の中にある。 
 
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  備中高松城水攻め関係歴史(現地案内版よりー高松城水攻築堤跡)
   永禄8年  (1565年)      清水宗治 高松城主になる  
   天正2年  (1574)      清水宗治 毛利氏に属する  
   天正9年  (1581)   11月    小早川隆景三原城に備中七城の城主を招く。ご馳走を振る舞い刀を授ける。  
           宗治、隆景に力の限り戦い、最後はこの刀で切腹する覚悟と断言する。  
           備中七城とは?(境目七城とも)宮路山城冠山城・高松城・鴨庄城日幡城庭瀬城松島城  
   天正10年  (1582)  3月15日    秀吉2万の軍勢を率いて姫路城を出陣   
           19日 秀吉勢 宇喜多の沼城に到着 16日間滞在して、石山(岡山)城の宇喜多の動向を探る。  
       4月15日    秀吉勢 竜王山に着陣  
       16日    秀吉、鍛冶山城から宮路山城を攻める(5月2日落城)  
       25日    冠山城落城 忍者に火を放たれ、城主 林重真切腹中島元行と清水右衛門が秀吉陣に夜討ちをかける。  
       27日    清水宗治秀吉勢と戦う 宗治 味方を100人失うも総力戦で400もの首を取る  
       5月1日    秀吉「水攻め」を決定する。黒田官兵衛の提案により前代未聞の「水攻め」に着手する。  
       5月2日    宮地山城落城 清水宗治、宇喜多陣に攻め込むも敗れる。  
       8日    築堤工事に着手 底部24m、上部12m、高さ8m、長さ3qに及ぶ大堤防を12日間で築いたとされる。  
       11日    秀吉 陣を石井山に移す。 竜王山から、高松城に一番近い石井山に陣を移す。  
       不明    日幡城(ひはたじょう) 裏切にて落城する。  
           上原元佑(毛利)秀吉に寝返り、城主日幡六郎兵衛を討ち取り日幡城を開城。後日、隆景が城を取り戻す。  
       16日    鴨庄城(かものしょうじょう) 裏切にあうも応戦し勝利する。加勢の生石中務が寝返ったが、毛利家臣桂民部は数十人を討ち取り勝利。  
       19日    築堤が完成する 数日で満水となり、城は孤城となる。  
       21日    毛利の援軍到着 輝元を大将に4万 輝元は猿掛城、隆景は日差山、元春は庚申山  
       6月2日    本能寺の変 織田信長、高松に向け出陣するが、本能寺で明智光秀に討たれ自刃。  
       3日    秀吉、光秀から毛利への使者を捕らえ、信長の死を知る。秀吉は急ぎ安国寺恵瓊(えけい)を呼び、毛利と講和する。  
       6月4日    清水宗治 自刃 小舟を浮かべ、舞をまい、唄をうたい湖上に散る。46歳。  
           辞世の句。 浮世をば 今こそ渡れ 武士の名を 高松の 苔に残して。  
           ーこれ以降の日程は、小和田哲男著「黒田如水」(ミネルヴァ書房)を参考に作成ー  
      5日    毛利軍撤退開始ーこの時黒田官兵衛は、小早川隆景より毛利軍の旗を20本借りているー  
     中国大返し  6日    吉川元春、小早川隆景撤退。  
           6日午後 秀吉軍撤退開始⇒岡山(近くの見所岡山城岡山後楽園)⇒沼(亀山)城(6日夜着)高松⇔沼城間 約22q  
       7日    沼城(6日朝発)⇒  
      8日    姫路城(8日朝着) 沼城⇔姫路城間 約55q  
      9日    姫路城(9日朝発)⇒明石⇒兵庫⇒尼ヶ崎まで約80q ー兵庫あたりから秀吉軍は小早川隆景より借りた旗を掲げながら行進ー  
      11日    尼ヶ崎(11日朝着)  
      12日    尼ヶ崎(12日朝発)⇒富田(12日夜着) 尼ヶ崎⇔富田間 約23q  
      13日    富田(13日午後発)⇒山崎合戦ー天王山の戦いー(13日午後)  
             
 
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         羽柴秀吉本陣跡        鷹ノ巣城跡              吉川元春陣所跡  
      秀吉・隆景・元春各本陣跡       
   高松城水攻築堤跡ー蛙が鼻築堤跡   鷹ノ巣城跡   羽柴秀吉本陣跡ー備中高松城水攻めー   
  高松城水攻築堤跡 GoogleMap
天正10年、羽柴秀吉が高松城を水攻めにするときにわずか12日間で築いた堤防の東端部。
当時は、高さ8m、上部の幅12m、底部の幅24m、長さ約3qもある。
  鷹ノ巣城跡ー小早川隆景陣ー備中高松城水攻めー
羽柴秀吉軍の備中高松城、水攻めに対して、毛利方の小早川隆景が陣を構えたと言われる鷹ノ巣城跡からの眺望は本当に素晴らしい。
備中高松城水攻めの全域は勿論、秀吉軍、毛利軍両方の軍の各陣全体を見渡すことができる。
この地域は、吉備国の中心地として栄えた所であるが、鷹ノ巣城跡からは、その地域全体、すなわち左から右方面にかけて、雪舟の修行した宝福寺備中国分寺付近から、鬼ノ城雪舟誕生の地造山古墳矢喰宮足守陣屋跡高松最上稲荷とその 奥之院一乗寺ある竜王山、吉備津神社・吉備津彦の命の墓と言われる茶臼山古墳のある吉備の中山、さらに右方向には楯築遺跡・王墓山古墳・日畑廃寺のある王墓の丘史跡公園など吉備地方の歴史を考える上では欠かすことのできない地域全体を一望の下に見渡すことができる。
  羽柴秀吉本陣跡ー備中高松城水攻めーGoogleMap
高松城水攻めの際、羽柴秀吉は、石井山持寶院境内に本陣を構えた。
天正10(1582)年6月4日、講和の条件として自刃した清水宗治公の首級は、この本陣に於いて、秀吉の首実検の後手厚く葬られ、一基の五輪塔を建立されたといわれている。
その後、地元の偉人を称える郷土愛は宗治公の顕彰へと進展し、明治42年に備中高松城本丸跡へ首塚の移築がなされた。(現地案内板参考) 
 
 
           
   宇喜多忠家陣所跡ー八幡山ー    吉川元春陣所跡ー庚申山ー   小早川隆景陣所跡ー日差山ー   
  宇喜多忠家陣所ー八幡山ーGoogleMap
備中高松城水攻めの際、織田方に付いた宇喜多秀家の叔父、宇喜多忠家(直家の弟)が陣を張った八幡山。
現在は、八幡神社が鎮座している。
備中高松城跡と秀吉陣跡方面の見晴らしが良い。
  吉川元春陣所跡ー庚申山(こうしんやま)GoogleMap
ー備中高松城水攻めー
庚申山の由来ー昔この山には、積善寺という多くの堂塔僧房をもち、楼門を構えた大寺があったが天正10(1582)年高松城水攻の時、毛利の勇将吉川元春がここを陣所としたため、その兵火によってことごとく焼失したと伝えられている。
その後度々復興を企てられたが、元禄4(1691)年に至り本隆寺の住持日正が新たに堂宇を建立し、大梵天王、帝釈天王、及び鬼子母神を奉祀して、庚申祭を行った。
それ以来、霊験あらたかな日本三代庚申の一として広く世に知られるに至ったのである。
この山の眺望は眼下に全国第4位の造山古墳があり、東方には吉備津神社の鎮座する吉備の中山が連なり、遠く児島の金甲山一帯が展望される。
また、足守川を隔てて高松城水攻の跡を俯瞰することができる。
        高松商工会 高松観光協会
(現地案内板) 
  小早川隆景陣所ー日差山ーGoogleMap
備中高松城水攻め時、小早川隆景の陣が有った所は、鷹ノ巣城跡との事。
日差山の毘沙門天(日差山寺)近くには駐車場があり、ここまでは車で来ることができるが、ここから鷹巣城跡までは約800m、20分程歩く必要がある。
ここ日差山を通る倉敷北部全山縦走コースは、明るい歩きやすく、眺望も良いコースの様子。
 
 
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                      鷹ノ巣城跡               吉川元春陣所跡     加藤清正陣跡 津田与左衛門陣跡  
                   隆景・元春・清正・与左衛門各陣所跡       
           
   日幡城跡   堀尾茂助陣跡ー御崎宮ー    清水宗治公自刃の地  
  日幡城跡ー高松城水攻めーGoogleMap
中国地方の雄、毛利氏が、羽柴秀吉率いる織田軍との戦いに備え整備した防衛ライン「備中七城」(庭瀬城・松島城・日幡城・加茂城・高松城・冠山城・宮路山城)の一つ。
天正10(1582)年の織田軍の毛利攻めの際、秀吉軍の懐柔工作によって一旦は落城するが、毛利軍から派遣された軍監、上原元祐(元祐の妻は毛利元就の娘)の裏切りによる落城に怒った小早川隆景が猛反撃に出た為秀吉軍は城を開けて引き揚げたといわれている。
  堀尾茂助陣跡ー御崎宮ー備中高松城水攻めーGoogleMap
織田軍の毛利攻めの際、堀尾茂助が陣を張ったとされる所。
当初ここが黒田官兵衛の陣跡かと思ったがよく調べてみると、黒田官兵衛の陣は、ここのすぐ東の峰を登った石井山にある秀吉の陣近くあった様子。
堀尾茂助について、ウィキペディアには、「天正10(1582)年の備中高松城攻めでは、敵将・清水宗治の検死役を務める」と記載されている。⇒Wikipedia
堀尾吉晴
  清水宗治公自刃の地 清水宗治公供養塔 GoogleMap
顕彰の記
天正10年6月4日
 浮世をば 今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に残して
と辞世の句を詠じて自刃せられたる高松城主清水長左衛門宗治公の至誠を後世に伝え怨親平等正邪一如の見地より両軍戦没者の霊を併せ弔らはんが為め瀬野妙光大法尼は十方有縁の士を結集して昭和38年5月8日此の地に大供養塔を建立し開眼法要を営む。
茲に大法尼の遺徳をたたえ後孫及び同志相はかり顕彰碑を建立しその業績を誌して碑文となす。
    昭和52年11月吉日
  当山第15代慈玄院日詔
(現地顕彰碑より)  
この供養塔が建てられたのは、高松知行所の旗本花房氏の菩提寺 妙玄寺の境内であった所。
現在妙玄寺の本堂は無いが近く建立される予定とのこと。
 
 
           
   ごうやぶ遺跡    庭瀬城跡   加茂城跡  
  ごうやぶ遺跡ー備中高松城水攻めーGoogleMap
三の丸総門のわきにあり、1582年6月4日死出の宗治等の舟を追うて宗治の僕、七郎二郎と月清の馬の口取興十郎とが「一足先に三途の川でお待ち申します」と互いに差し違えた所。
(現地案内板)
  庭瀬城跡 岡山市庭瀬 GoogleMap
室町時代の末ごろ(約400年前)備中松山の三村元親は備前の固めとしてこの地に築城した。
一帯は泥沼地でひじょうな難工事であった。その後宇喜多の重臣戸川肥後守達安がはいり(1602)古城を広げ城下町を整えた。
元禄12年(1699)板倉氏の居城となり明治を迎えた。自然石の石垣をめぐらした堀もよく残り、沼城の典型を示している。
)
(現地案内板より)
高松城水攻めと庭瀬城
天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中高松城水攻めの際、毛利方の防衛ラインとされた備中七城の一つ。
時の城主井上有景は毛利氏の撤退命令にも従わず秀吉軍と戦ったとされrている。
  岡山市指定史跡 加茂城二の丸跡 昭和47年3月24日指定
ー備中高松城水攻めーGoogleMap
加茂城は足守川沿いに開けた沖積平野の真ん中に築かれた平城。
築城時期は不明であるが、戦国時代末期には、西進する織田方軍勢に備え、毛利方が最前線となる備中南東部の国境沿いに備えた「境目七城」のひとつとなる。
天正10(1582)年の羽柴秀吉の備中攻略に際し、この城には毛利方の桂広繁・上山元忠・生石治家が立て籠ったが、秀吉軍の攻撃にあって城中で内紛が起き、ついに落城したと伝えられている。
(現地案内板参考)
 
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    加藤清正陣跡       津田与左衛門陣跡    宇喜多忠家陣所跡      
       清正・与左衛門・忠家陣跡      
           
   羽柴秀勝陣跡    加藤清正陣跡   副堤の北端ー備中高松城水攻めー   
  羽柴秀勝陣跡ー備中高松城水攻めーGoogleMap
羽柴秀勝は織田信長の四男で羽柴秀吉の養子となっていた。
この高松城水攻めは、羽柴秀勝にとっての初陣。
実の父の死を知ってどのような気持ちだったのだろう。
天正10(1582)年10月15日には、大徳寺において喪主となって実父信長の葬儀を行っている。
  加藤清正陣跡ー報恩寺山ー備中高松城水攻めーGoogleMap
備中高松城水攻めの際、この生石八幡宮のある山に加藤清正が陣を構えた。
すぐ西には足守川が流れている。
水攻めに当たって、川向こうに400m程の副堤を築き、この陣の前付近を水攻めの水取り口とし、梅雨で増水した足守川を閉鎖、築堤内に引き入れて備中高松城を孤立させた。
 
  副堤の北端ー備中高松城水攻めーGoogleMap
天正10(1582)年5月、羽柴(豊臣)秀吉は、高松城水攻めに際し、この付近からJR吉備線足守駅南まで全長約400mの副堤を築いたと伝えられ、この地はその北端にあたる。
(現地案内標識 
 
           
   津田与左衛門陣跡    羽柴秀長陣跡    冠山城跡  
  津田与左衛門陣跡ー備中高松城水攻めーGoogleMap
加藤清正陣と宇喜多忠家陣の間にある。
今は陣の南端部をかすめてJR吉備線が走っている。
 
  羽柴秀長陣跡ー鼓山ー備中高松城水攻めーGoogleMap
羽柴秀吉の弟秀長が陣を張った所。
山裾の南側は、板倉宿で当時の山陽道が通っており、要衝であった。
板倉宿の西、真金十字路で備中松山方面に延びる松山往来と西へ延びる山陽道、そして庭瀬陣屋町に向かう道路に分かれていた。
現在も、国道180号線、JR吉備線、そして山陽自動車道が鼓山をトンネルでくり抜いて通っている。
山陽道を挟んで南向かいには、吉備の中山があり、山の中腹には吉備津神社が鎮座している。
 
  冠山城跡ー備中高松城水攻めーGoogleMap
毛利軍の「境目七城」の一つ。
時の城主は、林三郎左衛門重真、妻は清水宗治の娘。
秀吉は、まず宇喜多忠家軍に攻めさせるが強い反撃にあい撤退。
次に、加藤清正が忍者を使って城内に放火ー城内より出荷したという説もあるー城内の混乱に乗じて秀吉勢が突入し城は陥落。
城主は自決し家来は自刃或は討死したとされている。
名の通り、大変優美な冠の形をしているのが印象的。
 
 
           
   宮路山城跡    鍛冶山城跡    松島城跡  
  宮路山城ー備中高松城水攻めーGoogleMap
毛利軍の「境目七城」の内の一つで、最も北に位置する。
当初黒田官兵衛らが降伏を呼びかけたが、毛利軍小早川隆景の家臣で城将として来ていた乃美元信は応じなかった。
しかし、隣の冠城の陥落後宇喜多家家臣の信原氏が開城を勧めついに開城した。
関が原合戦後は、秀吉の正室ねねの兄木下家定が治めることになる。
現在も陣屋町足守の街並みや近水園がその名残を留めている。
  鍛冶山城ー備中高松城水攻めーGoogleMap
毛利氏の最前線「境目七城」とは足守川を挟んで対岸にある城で、宇喜多氏側の延原(信原)氏が城主であったといわれている。
従って、宇喜多氏は、当時すでに織田方に寝返っており、宮路山城を攻めるにあたっては、織田軍の最前線の城であったことになる。
 
  松島城ー備中高松城水攻めーGoogleMap
毛利軍の「境目七城」の内の一つで、備中高松城からは最も遠い所にある。
その為、羽柴秀吉による備中高松城水攻めの時は、秀吉軍に攻撃される事無く、織田方と毛利方の和睦となった。
現在、川崎医療短期大学の敷地となっているあたりが松島城跡とされている。
川崎医療短期大学と川崎医科大学付属病院の建設されている敷地及びその西、両児神社がある最頂部まで含めて松島と呼ばれていたようであるが、松島城主要部があったのは、川崎医療短期大学の敷地、一名射越山とも呼ばれていた丘の上のようである。
 
 
           
   藤田伝八郎の墓ー本能寺の変の密書を持った密使ー    備中高松城水攻め水取り入れ口遺跡    花房助兵衛陣跡  
  藤田伝八郎の墓ー本能寺の変の密書を持った密使ー
GoogleMap
6月3日未明 本能寺の変を毛利方へ伝えんとした明智の臣・藤田伝八郎が秀吉の弟羽柴秀長の陣付近で捕えられた。
  備中高松城水攻め水取り入れ口遺跡 GoogleMap
この地は天正10(1582)年5月、羽柴(豊臣)秀吉が高松城水攻めの際、足守川のこの付近を堰止め、蛙ヶ鼻までの約3qの堤防を築き水を引き入れた場所と伝えられる。
(現地案内標柱より)
  花房助兵衛陣跡ー備中高松城水攻めーGoogleMap
備中高松城水攻めで秀吉軍として活躍した花房助兵衛の陣跡(城跡)を探したが、案内図に詳細な表示が無かった為なかなか分からなく、丁度歩いてこられた近くにお住まいの方にお聞きして探し当てた所。
この付近から高松農業高校の手前付近までが城跡であったらしいが、住宅団地になっていて、何の案内板も見当たらずそれらしい痕跡も見当たらない。
従って、ここが本当に花房氏の陣跡であったかについては確信無し。
 
 
 
           
   史跡 舟橋    仙石権兵衛陣跡   天神山陣跡  
  史跡 舟橋ー備中高松城水攻めーGoogleMap
高松城は平城で三方を堀で囲まれていたが、この南手口には具足の武士がようやくすれちがう程の細い道があった。
開戦直前に八反堀を掘り外壕とした。
そこへ舟を並べて舟橋(長さ約64m)となし、城内より進攻の際はこれを利用し又、退く時は撤去出来る仕組で城の西北の押出式の橋と共に大きく防備の役を果たしていた。
         高松城址保興会
(現地案内板) 
  仙石権兵衛陣跡ー備中高松城水攻めーGoogleMap
後に信濃小諸藩の藩主となる仙石権兵衛秀久陣跡は、羽柴秀吉本陣の石井山の麓近く、堀尾茂助の陣の北側に構えている。
上の写真では、正面中央に見える団地付近がその陣跡ではないかと言われている。
この仙石権兵衛秀久陣からは、備中高松城は勿論、羽柴秀勝の陣、宇喜多秀忠の陣などがすぐ近くに見える。
手前に見える青い覆いで覆われたのは備中高松稲荷の大鳥居。
そのすぐ向こう附近が、堀尾茂助の陣があったとされる御崎宮。
  天神山陣跡ー備中高松城水攻めーGoogleMap
備中高松城水攻めにおいて、小早川勢の小田孫兵衛、細川兵部、杉原播磨守らが陣を張ったとされる所。
備中高松城へは、花房助兵衛の陣、吉川元春の陣に次いで近い所に位置する。
 
         
   猿掛城跡  長良山城跡    A-COOPたかまつ 味彩館  
  猿掛城跡ー備中高松城水攻めーGoogleMap
5月21日毛利の援軍到着 毛利輝元を総大将に4万、輝元は、備中高松城からは、高梁川を挟んだかなり後方の猿掛城に本陣を置く。
当時の猿掛城主は、毛利(穂井田)元清(毛利元就の四男ー側室の子ー)。
毛利の援軍が到着した時は、19日に秀吉軍の築堤が完成、高松城の周りも刻々と水かさが増して孤立状態になっていた頃と推測される。
この時、織田方の総大将、織田信長はまだ到着していなかったとはいえ、秀吉方の布陣に比べて大将の元春、隆景、輝元いずれもかなり控えめな布陣であることがわかる。
常に、守りの姿勢であった毛利軍、関が原でも消極姿勢を貫き、萩の地に追いやられたものの、結果として生き延びて!
幕末になって、子孫毛利敬親が治めていた長州は?
 長良山城跡
室町時代初めここ服部郷を治めていた、世瀬川左衛門入道祐隣が、建武年間(1334〜1338)に築いた城と伝えられている。
高松城水攻めのあった頃の城主は、その後裔で姓を禰屋(ねや)と改めた禰屋親光で、毛利方として参戦している。
この城山の西には、岡山県立大学のキャンパスがある。
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TEL086-287-6671
〒701−1335 岡山市北区高松141−1
JR吉備線備中高松駅西ー国道180号線沿い
営業時間:8:30〜20:00
定休日:正月
水攻めでよく知られた備中高松城址のある附近には、食事をする所が見当たりにくい。
そこで、お勧めなのが、このA-COOPたかまつ 「味彩館」
店内は明るく中には「キムラヤのパン」が入っていて「イートインスペース」もある。
 
 
   
   JR備中高松駅 JR足守駅   サンロード吉備路  
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JRおでかけネット

近くのレンタサイクル店は
ウシダサイクル」(JR備中高松駅前)
TEL086−287−2167
岡山市北区高松原古才306
利用可能時間:8:30〜18:00
利用料金:2時間300円(以降1時間毎100円)
1日(6時間以上閉店まで)800円
変更の場合がありますので詳細は確認下さい。
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JRおでかけネット 
国民宿舎 サンロード吉備路 GoogleMap
TEL0866−90−0550
〒719−1124 岡山県総社市三須825−1
日帰り温泉付きの宿泊施設。
サンロード吉備路(宿泊予約サイト)
 
 
     
   川崎医科大学付属病院  足守八幡宮 足守一里塚遺跡  
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TEL086−462−1111
〒701−0192 岡山県倉敷市松島577
川崎医科大学付属病院ホームページ
 
国指定重要文化財 八幡神社鳥居 GoogleMap
平成19年8月27日指定
葦守八幡神社の鳥居は安芸の宮島の大鳥居と同様に、明神鳥居の柱の基部に稚児(ちご)柱を伴う両部鳥居であり、石鳥居のこの形式のものはめずらしい。
足守一里塚遺跡
国道180号線から足守方面へ行く国道429号線を右に折れ、岡山空港、龍山寺方面へ行く道路脇、冠山の南東付近、足守八幡宮の鳥居のすぐそば、にある。
 
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