旅 瀬戸内(たびせと)

牟礼・志度方面(屋島 談古嶺より) GoogleMap
     
  屋島壇の浦
談古嶺からは、牟礼、志度方面の町並みを見下ろすことができる。このあたりは平安末期、源氏と平家の古戦場として名高い。
源氏の軍勢が海から攻めてくるものと思っていた平氏は、対岸の庵治の山陰(舟隠し)に軍船五百隻を待機させ、挟み撃ちにする計画を立てていた。
ところが、源義経の源氏軍は、阿波の海岸に上陸、疾風の如き勢いで、陸路屋島まで進軍し、屋島の内裏へ火を放ち平家を海に追い立てた。
この屋島壇の浦の源平の戦いの中で、義経の弓流し、那須与一 扇の的、祈り岩・駒立岩、舟隠し、安徳天皇社、佐藤継信の碑、菊王丸の墓、洲崎寺
などさまざまの物語や史跡が残されている。
源平屋島合戦(屋島壇ノ浦の戦い)古戦場 船隠し・城岬公園

一の谷の戦で惨敗した平氏は、安徳天皇を奉じて屋島の壇の浦にその本拠を構えていました。平氏の瀬戸内海における制海権は、いまだに強力であったからです。敵は海路より攻めてくるものとばかり考えていた平氏陣営は、海側に警備を集中させていました。兵船を海上に配置する一方で、入江を隔てた対岸の庵治の舟隠しに軍船五百隻を待機させ、源氏の軍勢がやってきたら、挟み打ちにするという計画でした。
ところが、寿永4年(1185)2月、源義経率いる源氏勢は、その裏をかいて船で直接屋島には向かわず、阿波の海岸に渡りました。このとき、ふつうなら3日でかかるところを風に助けられて、わずか6時間ぐらいで到着したといいます。そして時を置かず、2日がかりの道のりを一晩で一気に屋島まで進軍します。屋島の内裏は火を放たれて、慌てふためいた平氏方は、船で沖へと逃げ出し、そのあとは壮絶な矢合戦となりました。義経の身代わりとなって討ち死にする、佐藤継信、那須与一の扇の的、義経の弓流しなど、数々のエピソードが展開され、屋島は歴史物語の舞台として、華やかな彩りを見せたのです。
義経の弓流し
海中に馬を乗り入れて戦っていた義経はあやまって弓を海に落としました。
平家方が弓を熊手でひろいあげようとしました。義経は自分の弓の弱いのを恥じて太刀をはらい危険をおかして拾いあげました。
那須与一 扇の的図
激しい戦いも、日暮れと共にその一日が終わろうとしていたとき、平氏は小船を一艘沖より差し出してきました。見ると美しい女人が扇を立て、手招きをしています。これは「射よ」ということなのだろうと、義経は弓の名人、那須与一に射落とすことを命じました。若い与一は両軍が見守る中、この大役に決死の覚悟で矢を放ち、見事扇は海に散って、両軍の喝采を浴びたのでした。
舟隠し
庵治の「舟隠し」は平氏が軍船500隻を待機させた場所です。源氏の軍船がやってきたら、挟み打ちにするという計画でした。
祈り岩・駒立岩
那須与一が扇の的を射るときに、郷里(栃木県)の那須大名神にかえて祈願した岩が、いの里岩(祈り岩)で、扇を射るときに駒を立てた岩が駒立岩として残っています。
安徳天皇社
安徳天皇の行宮跡で、現在は安徳天皇社があります。
佐藤継信の碑
佐藤継信の忠死を後世に広く知らせるため、高松藩祖松平頼重公が壇の浦遍路道沿いに建てたものです。
菊王丸の墓
能登守教経の矢に当って倒れた佐藤継信の首を菊王丸が切り落とそうとしましたが、継信の弟忠信に殺されました。教経は、菊王丸をあわれんでこの地に葬りました。
洲崎寺
八栗寺の末寺です。佐藤継信のなきがらを、この寺の扉に乗せて源氏の陣営まで帰ったといわれています。

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