旅 瀬戸内(たびせと)    毛利元就の墓    
   
   
  毛利元就の墓参道 毛利元就墓所    毛利一族墓所  
  毛利元就の墓
毛利元就は、明応6(1497)年、郡山で生まれ、大永3(1523)年、27歳で宗家を相続して以来、郡山の南東にあった旧本城を郡山全山に拡大し、本拠地としての守りを固めていくと共に、戦国大名として中国地方の統一を成し遂げ、元亀2(1571)年6月14日75歳でここ郡山城で波乱に満ちた生涯を閉じた。
元就の死後、この地に元就の墓と共に元就の菩提寺洞春寺が造られた。
その後、洞春寺は毛利家城主が城を移すに従って広島、萩、山口へと移されたが、元就の墓はここで祀られてきた。
明治2(1869)年には、郡山城内、城下にあった毛利一族の墓もここに移葬され元就の墓の下の段に毛利一族墓所として祀られている。
  毛利元就墓所(もうりもとなりぼしょ)
中国地方を平定した戦国の勇将毛利元就は、郡山城で生まれ郡山城で75歳の生涯を閉じるまで戦乱の日々をこの安芸の国吉田郡山城を本拠に過した。
  毛利一族墓所
この毛利一族の墓は、郡山城内、城下にあったそれぞれの墓を明治2(1869)年にこの洞春寺跡の元就墓所境内に移葬されたものである。
左から、興元墓所・幸松丸墓所・隆元夫人墓所・先祖合墓
(現地案内板を参考) 
 
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   洞春寺跡    百万一心の礎石    毛利隆元墓所  
  洞春寺跡(とうしゅんじあと)
洞春寺跡は、毛利元就の三回忌にあたる天正元(1573)年に菩提寺として、孫の輝元が創建し、元就の葬儀の導師であった嘯岳鼎虎禅師(しょうがくていこぜんし)を開山とした臨済宗の寺跡である。
輝元の広島移城の際、広島城下に移ったが、毛利氏と共に山口に移転、まもなく萩城下に移された。
(現地案内板より抜粋) 
  百万一心の礎石
郡山城築城に当たり、元就が人柱に代わり「百万一心」と書いた石を姫の壇の礎石に埋めさせ工事を成功させたといういわれ。
幕末に長州藩士が郡山城に登りその礎石を発見し拓本に撮って持ち帰り元就を祀っている山口豊栄神社に奉納した。
この石碑はその拓本の文字をもとに作製したもの。
「一日一力一心」とも読めるように工夫されており「皆で力をあわせれば何事も成し遂げることが出来る」という意味。
しかし、礎石として埋められたという石は未だに発見されていない。
  毛利隆元(もうりたかもと)墓所
隆元は、毛利元就の長男として大永3(1523)年多治比猿掛城内で生まれた。
天文15(1546)年24歳で家督を相続した。
3年後には、内藤興盛の娘(義隆の養女)を夫人とし、天文22(1553)年に長男幸鶴丸(輝元)の誕生をみた。
永禄期、九州の大友氏と交戦していたが、講和が成立するやいなや、尼子氏攻略のため、元就がいる出雲に応援のため多治比に一時帰還した。
郡山城には入らず、出雲に出発、途中安芸佐々部(高田郡高宮町)で和智誠春の饗応を受けたが、まもなく発病、翌朝未明に41歳、永禄6(1563)年急逝した。
菩提寺は常栄寺である。
(現地案内板より抜粋)
 
       
  嘯岳禅師の墓    毛利元就の墓参道   毛利元就の墓参道   
  嘯岳禅師(しょうがくぜんし)の墓
嘯岳禅師は筑前博多の人で二度も明に渡り修行を積み、永禄3(1560)年帰国後は、丹波高源寺、京都建仁寺、そして南禅寺などを歴任した。
元就は使いを出し、禅師を竹原妙法寺からしばしば吉田に招き入れた。
元就の逝去に際して、禅師は葬儀の導師をつとめ、元就の菩提寺洞春寺の開山にもなった。
慶長4(1599)年10月5日没。
この墓は天明8(1788)年山口洞春寺により建立した。
    平成2年3月 吉田町教育委員会
(現地案内板) 
  毛利元就の墓参道
この鳥居の手前に駐車場がある。
この鳥居から、毛利元就の墓までは徒歩で4分程。
     
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