旅 瀬戸内(たびせと)    教信寺ー野口城跡ーGoogleMap    
   
        
  教信寺ー野口城跡ー
TEL079−422−7189
〒675−0012 兵庫県加古川市野口町野口465
天台寺の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。
平安朝前期の僧、沙弥教信(しゃみきょうしん)がこの野口に庵をつくりました。
  念仏を唱えながら仏の教えを説き、お百姓の手伝いをし、わらじを作って貧しい人に与えたり、旅をするお年寄りの荷物を運んだりして、大勢の人を助けたことから「荷送り上人」や「阿弥陀丸」とも呼ばれました。
庶民仏教の普及に努めた庵跡に建てたのが教信寺で、境内の左手奥に教信上人廟があり、春には、満開の桜が境内を彩ります。
  また羽柴秀吉の播磨攻めの時、寺の東側にあった野口城では、黒田官兵衛が指揮した秀吉軍と教信寺の僧兵と野口城兵が戦いましたが、奮戦やむなく落城しました。
野口城の位置については、近世の山陽道の北側にあった説と南側にあった説があります。加古川市
(現地案内板) 
 
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   教信寺 総門    教信寺 本堂    教信寺 開山堂  
  教信寺 総門
18世紀後半の建築と推定されていた総門が老朽化したため平成14(2002)年新築。
旧門と違わずに再建(腰長押を新たに取り付け)。
  教信寺 本堂
本尊:阿弥陀如来立像
天正の兵乱後、元和年間(1615〜1623)に再興するも、天保11(1840)年に再び焼失。
現在の本堂は、もと書写山如意輪寺(女人堂)にあった寄棟造り本瓦葺きの念仏堂で、応永5(1398)年の建立と伝えられている。
明治11(1878)年に取り壊しを願い出たものを、明治13(1880)年に教信寺がもらいうけ、檀徒が協力して移築。
昭和57(1982)年に屋根瓦を葺き替え。
平成7(1995)年阪神淡路大震災で、壊滅的な損壊を受けるも多くの援助により復興、その際、本堂後半部の石積みの基礎を取り去り回り縁としている。(現地案内板「加古川市文化財保護協会」を参考) 
  教信寺 開山堂
本尊:教信上人頭部像
元観音堂
天正の兵乱後、元和年間(1615〜1623)に観音堂が斎行されるも、天保11(1840)年に焼失、その後再建されるも時期は不詳。
老朽化や破損が激しかったところに、平成7(1995)年の震災で修復不能となった為、基礎部分の部材以外は殆んど入れ替え。
復興の完了した平成13(2001)年以降開山堂に変更。
(現地案内板「加古川市文化財保護協会」を参考) 
 
           
   教信寺 薬師堂   教信寺 石造五輪塔     山王権現堂  
  教信寺 薬師堂
明治25(1982)年の再建と伝わる旧開山堂。
平成7(1995)年の大震災により東大壁面が傾斜し倒壊寸前となったため復旧。
復旧後の平成13(2001)年以来、本堂の脇壇にあった薬師三尊を中央に、脇壇に大日如来と大師像を祀り、薬師堂とする。(現地案内板「加古川市文化財保護協会」を参考) 
  教信寺 石造五輪塔 昭和51年3月23日指定
沙弥教信(しゃみきょうしん)の墓塔と伝えられ、廟所内に東面して建つ。
花崗岩製、総高2.08メートル。
各部の形式、種子の彫法などから推すと、鎌倉末期のものとみてよい。
元亨(げんこう)3(1323)年湛阿(たんあ)が勧進して、教信廟をつくったと伝えるから、その頃のものであろう。
当地方におけるこの時期の秀れた石造遺品として貴重な史料である。
  平成2年11月
     兵庫県教育委員会
(現地案内板より抜粋)
  山王権現堂   
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  教信寺 法泉院     教信寺 常住院   教信寺 遍照院   
  教信寺 法泉院
住職は、コントラバスの世界的奏者、ウィーン国立音楽大学卒。
「コンサートは、友引の日に計画して下さい」が口癖?。
教信寺 法泉院ホームページ
 
  教信寺 常住院
教信寺塔頭の一つ。
庭園が美しい。
庭園の正面は、書写山から移築したと言われる教信寺の本堂。
  教信寺 遍照院
教信寺塔頭の一つ。
 
 
         
   教信寺 不動院   西国街道     教信寺 鐘楼  
  教信寺 不動院
教信寺塔頭の一つ。
  西国街道 
教信寺の前は、旧西国街道。
沙弥教信は、この街道で旅をするお年寄りの荷物を運んだりして助けていたんだ。
今も西国街道の雰囲気はまだ、残っている。
 
  教信寺 鐘楼  
    史蹟教信寺と沙弥教信
教信寺は、平安時代に活躍した教信上人の庵の跡に建てられた寺院です。
教信上人は天応元年(781)奈良に生まれ、興福寺で学んだ後、16歳の時に同寺を出て諸国を行脚し、40年余りの後、賀古の駅(うまや)にたどり着き庵を結びました。
加古川での教信の活動は、ひたすらに念仏を唱えながら、街道を行く旅人の手助けをするというもので、東は明石から西は阿弥陀宿(現高砂市阿弥陀町)まで荷物を運んだと言います。
また、教信寺の南に広がる駅ヶ池も教信が地元の人々と掘った物だと言われています。

貞観8年(866)、自らの死期を悟った教信は、妻と子に遺骸は庵の側に捨てて鳥獣に施してほしいと言い残して亡くなりました。
同じ時摂津国勝尾寺(現大阪府箕面市)の僧勝如の夢に教信が現れ、自らの死を告げました。
 
  不思議に思った勝如が弟子を加古川へ走らせると、そこには頭部だけがきれいに残った教信の遺骸がありました。  
これが、現在教信寺に伝わる教信頭部像だと言われています。
その後、青和天皇(850〜880)が教信の徳をしのんでこの地に伽藍を建てて観念寺とし、さらに崇徳天皇が大治元年(1126)に念仏山教信寺と改めたとされています。

天下6年(1578)秀吉の三木城攻めにともない野口城が攻略され、教信寺もすべて焼かれてしまいましたが、諸尊は僧らの手によって焼失を免れ、元和年間(1615〜1623)に再興されました。
教信は一遍や親鸞にも先達ちとして仰がれ、とくに一遍は諸国を巡るたびの途中、教信寺で1泊して念仏踊りを興行し、これが現在の播州音頭の起源であると言われています。
   加古川市文化財保護協会
(現地案内板)    
 
   教信寺駐車場      
  教信寺駐車場
西国街道沿い、教信寺山門脇にあり。
     
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