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   旅 瀬戸内(たびせと)   黒田官兵衛ゆかりの地 GoogleMap    
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   竹田城跡   御着城址   黒田家廟所ー長浜 木之本ー   
  黒田官兵衛ゆかりの地
2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が始まっている。
大河ドラマを見る時、出てくる地域が一度行ったことがある所であれば、そのドラマにすごく親近感を持つことができるし、その地域の雰囲気もわかるのでよりドラマを楽しむこともできる。
そんなことから、最近は、NHK大河ドラマに取り上げられる地域が岡山から近い所であれば出来るだけ先に訪問しておこうと思っている。
今回もまず兵庫県を中心に訪問してきた。
訪問先では、官兵衛に関係が近い廟所や城などを訪問するのは勿論であるが、その城下町や史跡、神社、仏閣も訪問して、官兵衛ゆかりの地の土地柄も出来るだけ知っておくように心がけている。
  御着城址ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
黒田家発祥の地は、奥琵琶湖の長浜市木之本町黒田
佐々木源氏の流れをくむ一族が、木之本町黒田に住み、源宗清(別名宗満)のときに姓を黒田に変え、六代高政の時、備前福岡(現岡山県瀬戸内市長船町福岡)へ移り住んだとされている。
黒田高政の子重隆の代になって播磨に移り、御着城主の小寺氏に仕え、姫路城代を任される。
黒田官兵衛は、重隆の子職隆(もとたか)の子として天文15(1546)年11月29日に姫路城で誕生している。
なお、上記黒田家の系譜は、福岡藩に仕えた儒学者・貝原益軒が編纂した「黒田家譜」によるものである。   黒田官兵衛略歴
 
  黒田家廟所ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
別に、黒田家発祥の地は、播磨国黒田村(現 兵庫県西脇市黒田庄町黒田)であるとする異説もあり、研究されている。⇒黒田官兵衛の里 西脇
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、黒田家発祥の地がどのように取り上げられるのだろうか?


2014年放送のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のロケが2013年9月25日〜竹田城跡にて行われた。
「小田原城攻め」のシーンに使われるとの報道ですが、初回、2014年1月5日(日)に放送される予定とのこと。
 
 
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   黒田家墓所   広峯神社     姫路城  
  黒田家墓所ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
黒田家は、六代高政の時、備前福岡(現岡山県瀬戸内市長船町福岡)へ移り住んだとされている。
その子重隆の代になって播磨に移り、姫路、広峯神社の護符に黒田家伝来の目薬を付けて配布することで財をなし、御着城主の小寺氏に仕え、姫路城代を任さることになる。
備前長船の福岡、妙興寺には、黒田家の墓と伝わる墓所がある。
  広峯神社ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
黒田官兵衛の祖父、黒田重隆は、備前福岡から姫路に移ったのち、広峯神社の御師(おし)ー参詣者を案内し参拝や宿泊の世話をする者ーが配る神符とともに黒田家秘伝の目薬を売って財を成し、御着城を中心に西播磨で大きな勢力を持っていた小寺家に仕えて姫路城の城代となった。
官兵衛は、万吉と呼ばれていた幼少の頃から、よく姫山の館を抜け出してこの神社の御師の家や近くで目薬を作っている祖父重隆の所に来ていた。
  姫路城ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
黒田官兵衛孝高は、天文15(1546)年11月29日職隆の嫡子として、この姫路城の地で生まれている。(その頃の姫路城は、池田輝政が築いた、現存の規模の城となる前のもので、赤松家の小規模な城塞であったものを、官兵衛の祖父重職と父職隆が、整備した中世城郭であった)
幼名は万吉、母は明石氏
 
       
   黒田家廟所   書写山円教寺   黒田職隆廟所   
  黒田家廟所ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
御着城址の一角にある。
官兵衛の祖父重隆と生母明石氏を祀る廟所。
黒田家は、重隆の時御着城主小寺家の家老となり、出城であった姫路城の城主となった。
姫路城主は、重隆の子職隆(もとたか)、官兵衛孝高と続いたが天正8(1580)年羽柴秀吉の播磨平定の時、官兵衛は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と共に国府山城(妻鹿)に移る。
この墓所は、享和2(1802)年黒田十代藩主斉清により資材を九州から運んで再建された。
  書写山円教寺ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
三木城の別所長治が反旗を翻した時、羽柴秀吉は姫路城にいたが、西の毛利氏との間に挟まれたため、黒田官兵衛と話し合って、三木城包囲の為の援軍を竹中半兵衛を通じて信長に依頼し、本陣を書写山に移して西の毛利の攻撃に備えるとともに、三木城攻めの指揮をとった。
この時羽柴秀吉は、書写山に五百石を寄せている。
  黒田職隆廟所ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
俗に「筑前さん」と呼ばれ、妻鹿筑前さんの五輪塔で知られる。
黒田職隆は御着城主小寺氏の重臣・重隆の子で、黒田官兵衛孝高(如水)の父である。
羽柴秀吉の播磨侵攻にあたり、黒田職隆・孝高親子は天正八年(1580)姫路城を秀吉に譲り、妻鹿国府山城(妻鹿城)に移ったといわれる。
職隆は、天正13(1585)年8月22日没62歳。
官兵衛の祖父重隆は、この地の豪族妻鹿氏の娘を娶っている。
 
 
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   姫路文学館    播磨国総社    播磨国分寺  
  姫路文学館ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
姫路を中心とした、播磨ゆかりの文人たちを顕彰し、資料の調査研究を行うとともに、文学活動の拠点となることを目的として建設された。
南館には、播磨灘物語を書いた司馬遼太郎記念室がある。
  播磨国総社と黒田家ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
永禄10(1567)年ー黒田職隆の命により拝殿・御神門を再建。
屋根も板葺から瓦葺に葺き替え。
天正9(1581)年ー羽柴秀吉が姫路城を築城する際現在地に遷座。
  播磨国分寺と黒田官兵衛ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
上月城の救援に行った羽柴秀吉軍の隙をついて、別所勢が姫路城を攻めようとした。
このため、黒田官兵衛は国分寺にまで引き返して別所勢を撃退したと伝えられている。
 
       
  松原八幡神社    妻鹿城址   史蹟青山古戦場跡   
  松原八幡神社ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
天正元(1573)年、羽柴秀吉の三木城攻めの際、松原神社が、織田方、毛利方のどちらに味方するか、態度を明確にしなかった為、別所長治の怒りにあい火を放たれた。
羽柴秀吉の播磨平定後、秀吉もその時の松原神社の態度を怒り城南の芝原(現在の姫路市豊沢町)に移転する様に命じたが、黒田官兵衛は、松原が由緒ある地として現地での存続を懇願した。
その結果、社領を60石に減じられながらも移転は免れることが出来た。
その後、天正12年頃(1584)当社の僧・快祐が社殿を復興した。この時官兵衛も社殿を寄進している。
  国府山城址妻鹿城址ーー黒田官兵衛ゆかりの地ー
黒田官兵衛の祖父重隆は、この地の豪族妻鹿氏の娘を娶(めと)っている。
天正8年(1580)三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城とした。
これに対し、官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、天正元(1573)年、父職隆(もとたか)と共に国府山城に移った。
天正13年(1585)職隆が没した後は、廃城となっている。
  史蹟青山古戦場跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
永禄12年(1569)8月9日、小寺氏の出城姫路城を攻めようとした播州龍野城主 赤松政秀と黒田官兵衛との古戦場跡。
官兵衛は、秘策を尽くして不意撃ち、挟み撃ちし敵の軍勢を追い詰めてこの地まで撃退、この地が「決戦場」となった。
この戦いで敵の首七十をあげた官兵衛は、奇襲の作戦技もあって有名になった。
「智将 黒田官兵衛」といわれるその兆しを見せたのがこの青山合戦であった。
 
       
    心光寺    英賀神社   英賀城本丸之跡碑   
  心光寺ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
御着城主小寺氏の菩提寺で梨原寺という寺名であった。
永禄年間に黒田氏の菩提寺となりこの時に心光寺と改称、官兵衛が姫路城主となった時、姫路城内に移転。
その後慶長13年池田輝政公の時姫路城内から坂田町に移転。
昭和の時代になって国道2号線の貫通や戦後の復興事業により寺地が減少したため現在地に移転。
  英賀神社ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
天正8年2月(1580年)、羽柴秀吉は英賀城攻略に際し、特に当社に除火の令を出して敬神の誠を致したという由緒ある神社。
英賀神社 本殿の後、一の宮社・塩竃社・琴平社が祀られている場所には英賀城の土塁跡が残っている。

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、天正4(1576)年5月、英賀の浜に、毛利軍の船が、およそ5千の兵を載せて押し寄せてきた。
千にも足りない軍で応戦しなければならない黒田官兵衛は、この大軍を奇策で追い払ってしまう。
  英賀城本丸之跡碑ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
英賀城は、南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯で、守るのに大変つごうのよい城であった。
天正8年(1580年)秀吉に滅ぼされるまで約140年間三木氏は、的形から室津の間を中心にその周辺を支配し、一大勢力を誇っていた。
城内には本丸・二の丸をはじめ、一族が大きな屋敷を構えていた。
また、城下には、英賀五坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町として大いににぎわった。
今では、英賀神社本殿裏と英賀薬師(城主の墓所・宝寿寺跡)の北側にその史跡が残っているのみである。
 
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  香山城跡   篠ノ丸城址     置塩城跡  
  香山城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
鎌倉時代から香山荘地頭職であった香山氏の居城。
嘉吉の乱(1441年)で城は一度落城するが、文明3年(1471)に秀氏が城を再興。
羽柴秀吉が宇野氏(山崎・長水城)を攻めたときに城主秀明は宇野氏に属し、香山城は秀吉軍の黒田官兵衛に攻められ、天正8年(1580)4月27日に落城する。
司馬遼太郎の「播磨灘物語」には官兵衛の父小寺兵庫助の初陣での手柄の城として香山城が登場。
  篠ノ丸城址ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
築城:赤松円心
宇野政頼の時、天正8年(1580)、羽柴秀吉の猛攻により落城。
天正8年(1580)〜黒田官兵衛が羽柴秀吉から宍粟郡を与えられ領有。
これには、ー天正12年(1584)〜との説もあるー
その後官兵衛は天正15年(1587)に豊前国に移封。
  置塩城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
室町時代に播磨守護職であった赤松氏の居城。
標高370mの城山の山頂部に位置する播磨最大規模の山城跡。
天正5(1577)年、赤松則房の時、播磨平定のため侵攻してきた羽柴秀吉に殆んど戦うことなく降伏。
その後、天正8(1580)年羽柴秀吉による城破霊が出され廃城となった。
 
       
   上月城跡    佐用城跡ー福原城跡ー    利神城址  
   上月城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
上月合戦
戦国時代の天正5年(1577)〜6年に、全国統一を目指し中国地方へ侵攻する織田勢と中国の毛利勢との間で、上月城を舞台に行われた合戦。
天正5(1577)年11月、羽柴秀吉の侵攻に対して、毛利方についていた時の上月城主赤松政範は、隣の福原城に次いで滅ぼされてしまう。
播磨灘物語では、上月城主は上月政範、その妻は官兵衛の妻の姉妹となっている。官兵衛も竹中半兵衛と共に参戦。
羽柴秀吉は、上月城に尼子勝久、山中鹿之介主従を入れて守らせるが、宇喜多勢に攻められ撤退、宇喜多は之を上月十郎景貞に守らしたが再び秀吉軍により落城したとされる。
再度上月城に入った尼子勝久、山中鹿之介は、天正6(1578)年4月毛利方の小早川、吉川らに包囲される。
支援に向かった秀吉軍は、高倉山に陣を置くが、別所長治寝返りのため、織田信長の命により急遽三木城攻略に動き上月城より兵を引くこととなる。
上月城を死守しようと留まった、尼子勝久と山中鹿之介は、2ヶ月間の籠城の末、尼子勝久は自刃、山中鹿之介は、備中の毛利輝元の所へ護送の途中、高梁川の合の渡しで斬殺される。
  佐用城跡ー福原城跡ーー黒田官兵衛ゆかりの地ー
中世に築かれた代表的な「平山城」で、南面に川、背後に山の「城堅固」の立地で、空堀、防塁、馬落としなどよくその原型をとどめている。
戦国時代末期、東西の勢力拮抗の狭間で、西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していたが、天正5年(1577)11月、羽柴秀吉との攻防により落城しその役割を終えた。
この時、黒田官兵衛が、佐用城攻めの先陣を勤め、取り囲んだ城の一方にわざと逃げ口をつくる「孫子」の兵法を平塚藤蔵に教え、城主福原則尚を討ち取っている。
播磨灘物語に書かれている、この時の竹中半兵衛、黒田官兵衛、竹森新次郎らの手柄の譲り合いが非常に興味深い。
福原則尚は城脱出に成功したが、多くの城兵の討死を知り、菩提寺、福円寺で自刃したとの説もある。
後世、土地の人々によって、時の城主福原藤馬允則尚の首級を祀るため城跡に一社が造営され「福原霊社(俗に頭(こうべ)様)として今に崇敬されている。
   ー黒田官兵衛ゆかりの地ー  
       
  志方城跡     三木城跡    雲龍寺  
  志方城跡観音寺ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
黒田官兵衛の妻・光 幸圓の生まれた城。
黒田官兵衛は一夫多妻が一般的であった戦国時代、側室を持たず、光ただ一人を愛したといわれている。
嫡男は後の福岡城主 黒田長政
この城の城主、櫛橋家は、藤原氏の末裔で伊朝を元祖とし代々赤松氏の家臣であった。
伊朝より五代の孫櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に仕えて大いに重ぜられ祖父の例にならって播備作三国の財産出納の役をつとめ文明13年(1481)志方、天神山に城を築き、ついて明応元年(1492)この地に志方城を築いた。
以来伊家、伊定と父子三代88年間続いたが、天正7年8月10日羽柴秀吉の攻略にあって落城した。
播磨灘物語では、志方城は織田軍に攻められ落城するも、秀吉を通じて官兵衛が命乞いをしていたため、櫛橋左京亮は命だけ許されている。
そして、後に官兵衛は、一族を家臣団に組み入れ厚く遇したと書かれている。
  三木城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
三木城は室町時代の後期、東播磨八郡の守護代となった別所則治によって、明応年間(1492〜1501)に築城。
五代城主長治の時織田信長に対して反旗を翻した。
羽柴秀吉の10ヶ月に及ぶ兵糧攻めにより、天正8年(1580)1月17日、城兵の命を助けることを条件に、長治一族の自害によって開城。
合戦後は、秀吉の家臣が城代として在城し、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後は池田輝政が姫路城主となり、その支城として存続。
大坂夏の陣の直後、江戸幕府が打ち出した一国一城令によって元和3年(1617)に廃城となった。
   ー黒田官兵衛ゆかりの地ー  
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   有岡城跡ー伊丹城跡ー   竹中半兵衛の墓     黒田官兵衛の里 西脇  
  有岡城跡ー伊丹城跡ーー黒田官兵衛ゆかりの地ー
信長に背いた荒木村重を説得するために、蜂須賀正勝、前野長康に続き、最後に有岡城へ赴いた黒田官兵衛は、城中に入ったところで捕らえられ、土牢に約1年間幽閉され、天正7年(1579)10月16日、落城によって奇跡的に救出された。
播磨灘物語では、この時官兵衛は、荒木村重に寝返った御着城の主である小寺藤兵衛の、村重に官兵衛を殺させようとする経略に引っ掛かり、村重の有岡城へ行ったことになっている。
荒木村重は、藤塀衛の殺してほしいという意向を受け入れず官兵衛を牢にぶち込んだのである。
信長は官兵衛が戻ってこないのを、官兵衛も村重方に寝返ったとみて、人質に取っている官兵衛の子松寿丸(後の黒田長政)を殺すように竹中半兵衛に命じた。
竹中半兵衛は、黒田官兵衛が寝返りをするような人物ではないことを信長に説明するが聞き入なかった。
そこで、半兵衛は、信長には松寿を殺したと言って、秘かにその領地美濃の奥菩提という居城に隠している。
  竹中半兵衛の墓ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
天文13(1544)年〜天正7(1579)年。戦国時代の部将で初名は重虎、のちに重治、別名半兵衛。
竹中半兵衛重治は、初め斎藤龍興に属し、後に織田信長に従い、秀吉と共に各地に転戦し殊勲を立てる。
黒田官兵衛と共に戦国時代を代表する軍師として知られ、「両兵衛」「二兵衛」と称された。
三木城攻めの際中、平井山の陣中で胸を病み、一時は京都に移って療養していたが、固着した戦況を心配、陣中に帰ってきて天正7年6月13日、36歳の若さをもって永眠。
  黒田官兵衛の里 西脇説ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
通説として、黒田官兵衛の先祖黒田家発祥の地は、長浜 木之本ーと云われてきた。これは、福岡藩に仕えた儒学者・貝原益軒が編纂した「黒田家譜」によるものである。
しかし、播磨地域には、黒田家の発祥の地が西脇市にある黒田庄町黒田であることが古くから語り伝えれており、特に平成23年に、この黒田にある荘厳寺で、黒田氏の発生から滅亡までの歴代が記された「荘厳寺本黒田家系図」が発見されてからは、黒田家発祥の地が西脇であるという説を研究する機運が盛り上がっている。
 
       
  備中高松城水攻め跡    鳥取城跡    太閤ヶ平  
  備中高松城水攻め跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
織田信長の命で毛利攻めに向かい、備中高松城で膠着状態になった戦況を打破する為羽柴秀吉は高松城を水攻めにしようと堤防を築き水をせき止めようとしたがうまくせき止められなかった。
この時、土嚢を積んだ船の底に穴をあけて船ごと沈めるように献策したのが黒田官兵衛であり、また、この水攻めの最中、本能寺の変が起こり、織田信長が横死するが、秀吉に対して毛利との和睦と明智光秀の討伐を献策し、中国大返しを成功させたのも官兵衛と云われている。
  鳥取城跡附太閤ヶ平ー黒田官兵衛ゆかりの地ー 
国史跡 昭和32年12月18日指定
16世紀半ばといわれる成立以降、天正8・9年(1580・81)に羽柴秀吉の侵攻までの山頂中心の中世城郭と、それ以降江戸時代にかけての山裾を中心に石垣で構成された近世城郭という二つの顔を持つ。
また、秀吉側の本陣であった太閤ヶ平を中心とする中世城郭の分布は、全国でも屈指の規模を誇る。
近世城郭は、池田光政により32万石の城として整備され、寛永9年(1632)池田光仲が藩主となり鳥取藩として確立した。
(現地案内板)
  太閤ヶ平ー本陣山ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
鳥取城 山上ノ丸 本丸跡から北東約1.5qの所に見える山を本陣山(標高252m)ー太閤ヶ平ーという。
天正9年(1581)、羽柴秀吉が、鳥取城を兵糧攻めした際に、この山の頂きに本陣を構えたことからそのように呼ばれてきた。
本陣部分は、太閤ヶ平とも呼ばれており、巨大な土塁や空堀(からぼり)が当時のまま残されており、戦闘の際に築かれた臨時的な土の城としては日本最大級と評価されている。
                           平成24年9月 鳥取市教育委員会
(現地案内板を参考)
 
       
   生野銀山   随願寺    出石城跡  
  ー黒田官兵衛ゆかりの地ー   黒田家と随願寺ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
官兵衛の叔父黒田高友はこの随願寺、地蔵院で休夢と称する僧侶であった。
和歌に秀で、秀吉に仕える。明石宗和の息女である母とともに文人官兵衛に大きな影響を与えている。
天正元年(1573)、別所長治に攻められ全山を焼失。同13年に羽柴秀吉が再興した。 
  
  出石城ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
出石城が作られる前には、山名氏によって築城された有子山城が背後の有子山山頂にあった。
しかし、築城後わずか6年後の天正8(1580)年に天下統一をねらう織田軍によって城は陥落、城主は因幡に出奔している。
この時、黒田官兵衛は何らかの形でかかわっているのではないだろうか。
江戸時代に入り、ふもとに出石城が築城され、有子山城は廃城となっている。
 
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   有馬温泉    室津   龍野城  
  有馬温泉ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
播磨灘物語によると、黒田官兵衛は、有岡城の土牢に1年間ほど幽閉され、天正7年(1579)10月16日、落城により救出された後、しばらくの間、有馬温泉で動かなくなった左足の傷を癒した。
また、有馬温泉には、秀吉も戦傷を癒す為、あるいは、ねねを連れて湯治にしばしば訪れている。
そして、戦乱や大火で衰退した有馬の改修を行い、湯山御殿(太閤の湯殿館に湯船の遺構が現存)を建てた。
写真は、ねね橋。
  室津 GoogleMapー黒田官兵衛ゆかりの地ー
室津は、「此の泊 風を防ぐこと 室の如し」 (播磨国風土記)と記されているように古来より天然の良港である。
奈良時代には僧行基によって摂播五泊の一つに定められ、江戸時代には参勤交代の西国大名の上陸地として大いに栄え「室津千軒」といわれた。
また、井原西鶴や谷崎潤一郎などの小説の舞台になり、多くの悲話や伝説を秘めた歴史と旅情の土地であり、美しい瀬戸内の風光に恵まれた港町である。
(現地案内板を参考)
室津と黒田官兵衛
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、黒田官兵衛の初恋の相手、「おたつ」が、黒田職隆の養女として室津城の浦上家に輿入れすることになり、その婚礼の日、龍野城主赤松政秀が夜襲し「おたつ」はその犠牲となってしまう。
このことは、室津民族館カタログでは「室津の歴史」の中で、「1566年(永禄9年)、浦上政宗の子宗景の婚礼の夜、龍野城主 赤松政秀が夜襲し城を落とし、以後室山城は廃城となる。との記載があり、婚礼の夜に赤松政秀の夜襲があったという歴史的事実をうかがい知ることができる

         海駅のまち「室津」観光案内版
  龍野城 GoogleMapー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL0791-63-0907 
兵庫県たつの市龍野町上霞町128−1
龍野城は、鶏籠山の山城と後年、山麓につくられた平山城との二期に分かれ、山城は約500年前赤松村秀によって築かれ、山麓の平山城は寛文12年に信州飯田から脇坂安政公が移ったときに築城された。
本丸御殿 
開館時間:8:30〜17:00(入館16:30まで) 
休館日:毎週月曜日 
入館料:無料
交通:JR姫新線龍野駅より徒歩約15分
神姫バス龍野バス停より徒歩約5分
山陽自動車道龍野ICより車約5分
龍野城と黒田官兵衛
龍野城主が赤松政秀の時、政秀は、播磨平定の為、黒田家を味方に付けるよう様々な調略を試みるが、小寺政職の家老である、官兵衛の父職隆は、頑として受け入れなかった。
そうした時、母の病気を治す為に龍野城下の龍神池まで「おたつ」と共に薬草を採りに行き、赤松に捕らえられ人質にされようとするが、父職隆に救出される。
その後、官兵衛が成長してからの永禄12(1569)年8月9日、政秀は姫路城を攻撃しようとするが、官兵衛の秘策により、青山の地での合戦で敗退する。「智将 黒田官兵衛」といわれるその兆しを見せたのがこの合戦であった。
(NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」・青山古戦場現地案内板などを参考)
 
       
   沼(亀山)城跡    長浜城跡    中津城・城下町・耶馬溪  
  亀山城跡ー別名 沼城ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
城の本丸、二の丸のあった弁天山の形が亀に似ているところから亀山城と名づけられた。沼城ともいう。
亀山城は、永禄2年(1559年)宇喜多直家が、浦上宗景よりこの城を賜り新庄山城跡より移り天正元年(1573年)岡山城に移るまで14年間在城した。
宇喜多直家は、黒田官兵衛の調略により、天正6(1578)年5月頃には毛利方から織田方への内応の覚悟を固め、天正7(1579)年秋には、織田方に寝返り、天正9(1581)年2月14日に「尻はす」という出血を伴う腫瘍により亡くなっている(直家の死は翌年まで隠され、天正10(1582)年1月9日が表向きのな忌日)。
天正10(1582)年の備中高松城攻めの際は、宇喜多勢は直家の弟忠家を大将に羽柴秀吉に加勢しており、「新訳 備前軍記」、柴田一編著などでは、羽柴秀吉は、備中高松城に向かう時、また「中国大返し」で明智光秀攻めに向かう時もこの亀山城(沼城)ーこの頃は岡山城の支城ーで1泊したことになっている。ー「中国大返し」の時は吉井川の氾濫で6月8日朝まで足止め(2泊)との説もー
明智光秀攻めについて黒田官兵衛との軍議もここで行われたのであろうか?
参考資料ー「黒田如水」小和田哲男著 ミネルヴァ書房発行
「新釈備前軍記」柴田一編著 山陽新聞社発行
  長浜城跡と長浜城下町ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
長浜城は、豊臣秀吉が織田家の家臣として初めて築いた。
琵琶湖湖上交通の要で、湖水に石垣を築き、城内の水門から直接船の出入りができるようになっていた。
城下町は、浅井長政の小谷城下からそのまま移し、楽市楽座の制度と地租税三百石免除の恩典を与えた。
その結果、江戸時代を通じて長浜の町は大いに栄えた。
山之内一豊も城主になったことがある。
町並みには、栄えた頃の面影が色濃く残っていて、いにしえの繁栄を懐古しながらの散策には最適。
黒田官兵衛は、小寺政職が織田方に着くことに決めると名代として岐阜城の信長に拝謁に行く。
その帰り、秀吉に招かれ長浜に行き、建築工事中の長浜城下を見て廻ると共に城で秀吉の妻「おね」や「竹中半兵衛」と合っている。
  中津ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
ー中津城・城下町中津・耶馬溪ー
中津の城下町としての歴史は、黒田官兵衛が天正15(1587)年に豊臣秀吉から豊前六郡ー築城・仲津・京都・上毛・下毛・宇佐ーの16万石と馬ヶ岳城を与えられ、山国川河口部に中津城を築城したところから始まる。
黒田氏に続く藩主細川忠興が本格的に城下町の整備を始め、江戸時代寛文年間(1661〜1672年)藩主小笠原氏の時代には城下町としての体裁をほぼ完成している。
享保2(1717)年には、奥平氏が入封し約150年で明治維新を迎えることになる。
町割りは統一され、町屋を武家屋敷と、12ヶ寺に及ぶ寺院が並んだ寺町で囲んでいた。
現在の中津市は、中津藩時代の仲津・下毛を中心とした地域から成っており、城下町の名残を残す市街地と、そこから山国川上流部にそって広がる平野部、そして、青の洞門、羅漢寺附近から上流の景勝地 耶馬溪のある渓谷部に広がっている。
 
     
   中津城  後藤又兵衛の墓    長岩城跡  
  中津城ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
豊臣秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛孝高が、天正15(1587)年九州平定の論功行賞として豊前国六郡を与えられ、山国川(やまくにがわ)の河口デルタである中津の地を選び、翌年築城を始めたのが中津城の始まり。
 
後藤又兵衛基次の墓ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
戦国の武将後藤又兵衛は、永禄3(1560)年播州で生まれ、自刃した父の遺言により、幼少時から黒田官兵衛に仕え、後黒田二十四騎の一人として官兵衛に忠義を尽くす。
しかし、長政と不仲になり、黒田家を出奔し浮浪、大阪の陣が起こると豊臣方に付き道明寺河原で討死したと伝えられている。
一説では、夏の陣敗戦後、放浪の旅で西下、かって住んでいた耶馬溪伊福の里へ落ちのび隠棲の中で豊臣家再興を期していたが豊臣家廃嫡を知り自刃したとも伝えられている。
  長岩城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
問い合わせ先TEL中津市耶馬溪支所 地域・観光振興係0979-54-3111 
所在地 耶馬溪町大字川原口
豊前の国の守護宇都宮信房が弟重房に下毛野仲郷を分与、重房は姓を野仲と改め建久9(1198)年に長岩城を創築した。
以後22代、390年間、野仲氏の居城となった。
全盛時代の所領支配は、宇佐郡、下毛郡の一部にまで拡大したが、天正16年(1588年)後藤又兵衛を先陣とする黒田長政の大軍に攻め落とされ、以後廃城となる。
戦国時代の山城としては、九州における最大規模のもの。
 
       
   福岡ー福岡城・福岡城下町ー   福岡城跡    名島城跡  
  城下町福岡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
福岡市は、九州地方における、行政、経済、交通の中心地として重要な地位を占め、人口も九州地方で最大である。
福岡の街は、もともと博多と呼ばれ大陸への玄関口、商人の町として発達してきた。
豊臣秀吉による天下統一で博多の街が復興された後、1600年関ヶ原の戦で戦功を挙げた黒田長政が那珂川の西に城を築き城下町を整備すると那珂川を境に西が福岡、東が商人の町博多と呼ばれるようになった。
市制施行にあたって、市の名前として、「博多」とするか「福岡」とするか激しい論争があったが、明治23(1890)年の市議会により、1票差で福岡市に決定、「博多」の名は当時の国鉄の駅名「博多駅」として残った。
  福岡城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
関ヶ原の戦い(1600年)の功績で徳川家康から与えられた福岡藩の初代藩主黒田長政と共に黒田官兵衛が築いた城。
敵が攻めにくい構造となっており、築城の名手加藤清正からも高い評価を受けている。
現在は、石垣と一部の櫓、門、塀などが残り、桜の名所として、市民の憩いの場となっている。
 
  名島城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
福岡市東区名島1−26
名島城は、豊臣秀吉による九州平定後、毛利元就の三男、小早川隆景公(1533〜1597)が、筑前、筑後の両国と肥前二郡を与えられて、天正16(1588)年から築城を開始した城。
この城は、二方を海、一方を多々良川に囲まれた要害堅固な城として知られ、秀吉による文禄・慶長の役(1592〜1598)では、名護屋城への軍事・生活物資や人材などの補給基地としての重要な役割も担った。
その後、小早川秀秋続いて黒田長政が入城したが、黒田長政の福岡城築城に伴い廃城となった。
天正19年3月黒田官兵衛は、小早川隆景が名島城で催した茶会に招かれている。
交通:西鉄電車名島駅・西鉄バス「名島」から徒歩約15分
 
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   福岡市博物館   光雲神社     円応寺  
  福岡市博物館ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL092-845-5011 
〒814-0001 福岡県福岡市早良区百道浜3−1−1
開館時間:9:30〜17:30(入館は17:00まで) 但し7月8月は日曜・祝日を除き19:30まで(入館は19:00まで)
休館日:毎週月曜日、月曜日が祝・休日の場合は開館し、翌平日に休館、年末年始(12月28日〜1月4日)、文化の日(11月3日)は常設展無料
常設展示 展示構成
1.金印の世界。2.福岡のあけぼの、3.奴国の時代、
4.鴻臚館の時代、5.博多綱首の時代、
6.博多豪商の時代、7.博多藩の時代、
8.近代都市・福岡の時代、9.現代の福岡、
10.福博人生、11.山笠の世界
黒田官兵衛・黒田長政については7.博多藩の時代ー皆のもの、今日からここは「福岡」だーで・・・!
  光雲神社ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL092-761-1807
〒810-0061 福岡県福岡市中央区西公園13−1
福岡藩の藩祖、黒田官兵衛(如水)と初代藩主 黒田長政を祀っている神社。
光雲神社の名前は、官兵衛の法名「龍光院殿」と「長政の法名「興雲院殿」から一字ずつ取って付けている。
当初福岡城本丸天守台下に祀られていたが、明治4(1871)年。黒田家が東京に移転する時、現在の警固神社の近くに移し光雲神社とした。
その後、明治42(1909)年、現在の地に移った。
昭和20年の戦災で焼失したが、昭和41年10月再建。
交通:西鉄バス「西公園」から徒歩約5分
  円応寺(えんのうじ)ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL092-761-1454
〒810-0074 福岡市中央区大手門3−1−7
黒田官兵衛の妻 光姫(照福院殿)が慶長7(1602)年4月に開いた浄土宗の寺。
光姫の墓は戦後の都市計画で崇福寺に移されたが、その後昭和55年に供養塔が建てられた。
他に、6代藩主継高の息女厚姫の墓、黒田二十五騎の桐山丹波守、黒田節の作詞者として知られた国学者二川相近の墓、玄洋社の頭山満の墓もある。
開門は10:00〜17:00
交通:地下鉄「大濠公園駅」から徒歩約4分
 
 
       
   崇福寺    恵光院    水鏡神社  
  崇福寺(そうふくじ) ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL092-651-0398 
〒812-0044 福岡県福岡市博多区千代4丁目7−79
宗派:臨済宗大徳寺派
創建:仁治元年(1240)随乗坊湛慧禅師によって創建
創建場所:筑紫郡大宰府町横岳
黒田家の菩提寺で、黒田官兵衛・長政をはじめ黒田家歴代の墓がある。
仁治元年(1240)、大宰府に創建されたが福岡藩初代藩主となった黒田長政が現在地に移転。
交通:地下鉄千代県庁口から徒歩約5分
  恵光院ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
福岡県福岡市東区馬出5−36−35
寛永年間(1624〜1644)に福岡藩二代藩主 黒田忠之の開基により建立。
九州を平定した豊臣秀吉が天正15年筥崎に滞在した時、千利休が豊臣秀吉を招いて茶会を催したといわれる燈籠堂がある。
 
  水鏡神社ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL092-741-8754 
〒810-0001 福岡県福岡市中央区天神1−15−14
菅原道真を祭る神社。
延喜元(901)年京都から大宰府に赴任途中の菅原道真が、四十川の清流を水鏡にして自らの姿を映した場所(今泉)に、後に社殿を建て、水鏡天神または容見天神と呼ばれた。
慶長17(1612)年には、福岡藩初代藩主黒田長政がこの地に移し、二代藩主忠之が社殿を再建したとされる。
福岡の繁華街「天神」の地名は、この神社にちなんだものと言われている。
(現地案内板)
 
       
   安国寺    警固神社    東長寺  
  安国寺ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL092-741-2770 
〒810-0001 福岡県福岡市中央区天神3−14
慶長5(1600)年、豊前中津から領地替えにより、筑前の国主となった黒田長政が、天翁全補禅師(てんおうぜんぼぜんし)のために、豊前の安国寺を移したもの。
寛永12(1635)年火災で焼失したが、福岡藩二代藩主黒田忠之の援助により再興された。
境内には「飴買い幽霊」の伝承を持つ墓がある。
  警固神社ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL092-771-8551 
〒810-0001 福岡県福岡市中央区天神2−2−20
神功皇后による新羅親征の際、皇后の船団を守護し勝利に導いた、神直日神、大直日神、八十禍津日神の三神を、警固大明神と仰いで福崎丘上(現在の福岡城本丸跡)に祀ったのが始まりとされる。
慶長6年(1601年)、福岡城築城の際、福岡城主黒田長政によって下警固山上に移され、さらに慶長13年(1608年)に現在の場所に社殿が造営された。
以来、福岡城鎮守の神として歴代の福岡藩主をはじめ世人より篤く崇敬されてきた。
祭礼  春祭 3月19日、夏祭 7月19日、秋祭 10月19日
交通:地下鉄「天神駅」から徒歩約3分
 
  東長寺ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL092-291-4459 
〒812-0037 福岡県福岡市博多区御供所町2−4
大同元(806)年、唐から帰国した空海の創建とされる。
兵火により一時荒廃するも、福岡藩二代藩主黒田忠之により再興。
境内には、堂内扉に仙腰a尚の他、当時の文人の書画が刻まれた天保13(1842)年建立の六角堂や、忠之をはじめとする福岡藩主の墓所がある。
また、本尊の木造千手観音立像は国の重要文化財に指定されている。
平成4(1992)年には木造座像としては国内最大級の「福岡大仏」が、平成23年には木造五重塔が建立された。
(現地案内板)
交通:地下鉄祇園駅から徒歩約1分
 
 
       
   東林寺   筥崎宮    如水の井戸  
  東林寺ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL092-431-0990 
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前3−7−21
元禄9(1696)年福岡三代藩主黒田光之の近臣立花重根ー実山ーにより創建された。
実山は博学多識で文才に優れ、茶人としても千利休の高弟南坊宗啓が記した書「南方録」を発見し、研究を重ねて茶道南坊流をおこしたことで知られている。
境内には実山の墓所がある。
なお当寺は創建当初、現在の祇園町付近に所在したが、明治42年の博多駅建設に際して現在地に「移転した。
開山は、曹洞宗中興の祖と言われる卍山道白禅師。
交通:JR博多駅より徒歩約5分
  筥崎宮ー国指定重要文化財ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL092-641-7431 
〒812-8655 福岡県福岡市東区箱崎1−22−1
創建:延長元(923)年
祭神:応神天皇・神功皇后(応神天皇の母)・玉依姫命
元寇ー文永11(1274)年ーを始め数度の火災により焼失するも、天文15(1546)年大内義隆により現在の本殿と拝殿が、文禄3(1594)年小早川隆景により楼門が再建される。
 
  如水の井戸ー大宰府天満宮ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL092-922-8225 
太宰府市宰府4−7−1
福岡藩主黒田長政の父孝高(よしたか)(如水は法号)は、天満宮を深く崇敬しており、福岡城内に居館が完成するまでの間、此処に草庵を建て、二年間隠棲していた。
その際、茶の湯に使用した井戸。
(現地案内板を参考)
 
   
   石垣原合戦古戦場  石垣原合戦古戦場ー実相寺山ー 石垣原合戦 吉弘統幸陣所跡  
  石垣原合戦古戦場ー別府温泉の旅ー
慶長5(1600)年9月13日ー関ヶ原決戦の2日前ー別府の扇状地を舞台に黒田官兵衛の軍勢と旧領回復を目指す大友義統の軍勢とが激突した、いわゆる石垣原の合戦が行われた。
別府市内には、黒田軍の陣が置かれた実相寺山をはじめ、大友方の陣跡、大友方右翼の将としてその名を馳せた吉弘嘉兵衛統幸の陣があったとされる坂本台地など古戦場跡やこの合戦で活躍した武将ゆかりの神社、寺が点在している。
実相寺山からは、これら古戦場跡を一望のもとに見渡すことが出来る。
石垣原合戦ー実相寺山ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
慶長5(1600)年9月13日ー関ヶ原決戦の2日前ー別府の扇状地を舞台に黒田官兵衛の軍勢と旧領回復を目指す大友義統の軍勢とが激突した、いわゆる石垣原の合戦が行われた時の黒田軍の陣が置かれた所。
大友方の陣跡や合戦場跡を見渡すことが出来、その時の合戦の様子を示す説明版が設置されている。
また東方面は、別府湾をはじめ別府市街を見渡すこともできる。
石垣原合戦 吉弘統幸陣所跡ー坂本台地ー
ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
天下を二分して戦われた関ヶ原の戦いの二日前の慶長5(1600)年9月13日に、西軍石田三成方についた旧豊後国二十二代大友義統と、東軍徳川家康方の前中津城主黒田孝高(如水)が激突した、いわゆる石垣原の合戦において、大友方右翼の将としてその名を馳せた吉弘嘉兵衛統幸の陣があったとされる所でこの付近一帯は坂本台地と呼ばれている。。
吉弘統幸は旧主君挙兵の報を聞き豊後立石村にはせ参じ、この合戦において鬼神のごとき活躍で二十数騎の敵将を討ち取り、黒田軍をおおいに苦しめたが、七番掛けで遂に力つき討ち取られたといわれる。
行年三十八歳であった。
 
       
   吉弘神社    寶泉寺    岡山城  
  吉弘神社ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL0977-23-8297 
〒874-0910 大分県別府市石垣西6−6−19
慶長5(1600)年9月13日、黒田如水八千の大軍と大友義統三千の軍とが、9月9日より石垣原に於いて戦い、大友軍右の翼の大将吉弘嘉兵衛統幸と黒田方の勇将井上九郎衛門元房とが激突し吉弘統幸が討ち取られる。
首級は実相寺山に陣を張る黒田如水の命により、吉弘の郷里屋山 筧の城に送る。
吉弘行年三十八歳、その屍が宝泉寺の僧侶と里人によりこの地に葬られ、後ほど子孫により神社が建てられた。
慶長五年九月十二日夜石垣原頭で中秋の月を仰いで統幸は一族の武将と決別の宴を催し辞世の句を残す。
  あすは誰が 草の屍やてらすらん 石垣原の今日の月影
 
  太平山 寶泉寺ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
宗派:臨済宗妙心寺派
本尊:釈迦如来像
慶長5(1600)年9月、石垣原合戦で討死した大友軍右の翼の大将吉弘統幸の菩提寺で、統幸の位牌がある。
  岡山城ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
備前国邑久郡から起こった宇喜多直家が、岡山の地・石山にあった岡山城の前身にあたる城砦に入城したのは、天正元年(1573)の秋であった。
石山の城はこの地の豪族であった金光氏の小城に過ぎなかったが、直家は、この城を大改築して居城とし、城下町の経営に着手し岡山繁栄の基礎をつくった。
その子八郎秀家は、天承18年(1590)秀吉の意見に従い、石山の東「岡山」に本丸を移し城郭の拡張整備を開始し、慶長2年(1597)天守閣が落成するにおよんで城普請は完成した。これが豪壮きわまりない石垣と内堀を今に残す岡山城本丸である。
(現地案内板より抜粋)
 
黒田官兵衛は、宇喜多直家凋落のために幾度か岡山城を訪れている。
 
       
   神吉城跡ー常楽寺ー   加古川城跡ー称名寺ー     鶴林寺  
  神吉城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
赤松氏の一族赤松範次が築城した城で初代城主は範次の子元頼で神吉元頼を名乗った。
神吉集落全体が城域のいわゆる惣構の城であった。
中の丸を中心に東の丸・西の丸・二の丸の四つの曲輪をもっており小さいながらも天守閣が建てられていたといわれている。
現在、中の丸には常楽寺と神吉神社がまた西の丸には真宗寺が建てられている。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でも放送されたが、羽柴秀吉の播磨攻めにおける加古川城での毛利討伐の軍議、いわゆる「加古川評定」の際、当時の城主頼定は赤松一族の別所氏に付き秀吉と戦ったが度重なる戦闘空しく頼定をはじめとする城兵は討死し、天正6(1578)年7月16日ついに落城した。
常楽寺の本堂裏の墓地には城主神吉頼定の墓がある。
  加古川城跡ー称名寺ーー黒田官兵衛ゆかりの地ー
鎌倉時代、糟屋有教により築城。
12代城主糟屋武則の時の天正5(1577)年、羽柴秀吉による毛利討伐の軍議(加古川評定)が播磨中の領主達を集めてこの城で開かれた。
この時、三木城主の別所長治は姿を見せず代わりに名代として毛利びいきの叔父別所吉親(賀相)が出席、志方城主で官兵衛の義兄櫛橋左京進と共に造反を宣言、追従する過半数の領主達を従えて出て行ってしまった。
これが三木の干殺しで有名な三木合戦の始まりとなり、野口城、神吉城、志方城、御着城など別所氏側に付いた城が攻め落とされることとなる。
城跡は称名寺となっており遺構は、堀だったと思われる水路などがわずかに存在するのみ。
 
  鶴林寺ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
崇峻天皇2(589)年、聖徳太子が16才の時、秦河勝(はたのかわかつ)に命じ仏教をひろめる為の道場として建てられました。
釈迦三尊と四天王を祀り「四天王寺聖霊院」と称されたのがこの寺のはじまりといわれ、播磨の法隆寺とも呼ばれています。
平安時代の壁画が見つかった県下最古の木造建築物・国宝「太子堂」や、泥棒が盗み出し壊そうとしたら「アイタタ」という声が聞こえてきたため改心したと伝えられている国宝重要文化財「金銅聖観音像」など多くの文化財があります。
また官兵衛ゆかりのものとしては、天文9(1540)年ごろの官兵衛の父・職隆の書状や天正16(1588)年の官兵衛直筆の書状、信長や秀吉が鶴林寺への乱暴狼藉を禁じる禁制の文書のほか、織田勢に降伏した高砂城主・梶原景行が寄進した県指定文化財の机などが残っており、官兵衛と鶴林寺とは深いつながりがありました。
           加古川市
(現地案内板)
 
       
  教信寺ー野口城跡ー    野口城跡    五社宮野口神社   
  教信寺ー野口城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL079−422−7189
〒675−0012 兵庫県加古川市野口町野口465
天台寺の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
平安朝前期の僧、沙弥教信がこの野口に庵をつくり、念仏を唱えながら仏の教えを説き、お百姓の手伝いをし、わらじを作って貧しい人に与えたり、旅をするお年寄りの荷物を運んだりして、大勢の人を助けたことから「荷送り上人」や「阿弥陀丸」とも呼ばれた。
庶民仏教の普及に努めた庵跡に建てたのが教信寺で、境内の左手奥に教信上人廟があり、春には、満開の桜が境内を彩る。
また羽柴秀吉の播磨攻めの時、寺の東側にあった野口城では、黒田官兵衛が指揮した秀吉軍と教信寺の僧兵と野口城兵が戦ったが、奮戦やむなく落城した。
加古川市
(現地案内板より抜粋)
 
  野口城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
野口城は野口丘陵の先端部に位置する、長さ43間(約83m)横21間(約42m)の丘城であったと伝えられている。
天正6年(1578)4月、秀吉の三木城攻めに際して最初に攻められたのがこの城で、城主の長井四郎左衛門長重以下の精兵がこれに対峙した。
野口城は四方を沼田に囲まれた要害であったが、秀吉は数万荷分の麦や草木でこれを埋め立て、3日3晩攻め立てたため、ついに降参したと言われている。
なお、この時、近くの教信寺も兵火にかかって全焼しているが、同寺の僧兵不動坊海長・経蔵坊春盛などが加わり、目覚ましい働きをしたと伝えられている。
平成14年11月 加古川市教育委員会
(現地案内板表現を一部変更)
  宮野口神社ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL079−422−4352
〒675−0012 兵庫県加古川市野口町野口326
約350年前の創建といわれているが、一説によれば、その昔、比叡山麓日吉神社(ひえじんじゃ)より御分霊をお迎えし、のち四柱の神を併せ祀ったともいわれている。
山王五社宮と呼ばれ権現号を称していたが、明治の初め野口神社と称するようになった。
主な行事
1月18日・19日 厄除大祭
7月28日     夏祭(湯だて)・大祓祭
10月15日に近い日曜日 例大祭
    加古川市 加古川市観光協会
(現地案内板)
        野口神社案内図
近くには秀吉により天正6年(1578)に攻め落とされた野口城があった。
 
       
   光明山 宝蔵寺   阿閇城跡    大藤山 長楽寺   
  光明山 宝蔵寺ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL079−437−8271
〒675−0126 兵庫県加古川市別府町本町1−23
奈良時代、行基菩薩の開基と伝えられている。
羽柴秀吉の三木城攻めにおいて、毛利軍が食料を運び込むのを防ぐ重要な拠点となった阿閇城(あえじょう)が近くに在った為被災している。

多木化学の創始者多木久米次郎寄贈の日本最古と言われるオリーブの木やこの地、別府出身の俳人・滝瓢水の筆塚がある。
阿閇城の所在地については諸説あるが、その一つとしてここ宝蔵寺近くの西脇戎神社附近も挙げられている。
その阿閇城跡を探すための目印ともなるので「黒田官兵衛ゆかりの地」として取り上げた。
  阿閇城跡(あえじょうあと)ー別名別府城ー
ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
三木合戦において、三木城への食糧輸送路として重要な位置にあった阿閇城は、城主加古政顕が織田軍との戦いが開始されるとすぐ阿閇城を放棄し三木城へ入城し、秀吉方の入城を許してしまった。
毛利軍は阿閇城を取り返すべく、毛利・雑賀衆の8,000人の水軍を向かわせたが、官兵衛は500人ほどの兵で迎え討ち奇策で毛利・雑賀軍を追い返してしまう。
 
  大藤山 長楽寺ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
標高約250mの大藤山の麓にある浄土宗の寺院で、和銅6(713)年慈心上人の開基。
高倉天皇が中宮建礼門院の安産を念じ、丹波老の坂の地蔵尊に祈願をされた。
するといとも簡単に玉のような皇子を拾いあげたことから、平清盛に命じて、全国六十余州の国々に一体ずつ安置させたものが、本尊の「木造地蔵菩薩半跏像(重要文化財)」。
以後、「谷の子安地蔵」として安産祈願に訪れる人が絶えない。
羽柴秀吉の播磨攻めの際、長楽寺の伽藍は焼失してしまったが、住職が本尊と釣鐘を背負って大藤山を越え、「蛇が池」に沈めた。
今も池の底には釣鐘があり、池の主である大蛇がしっかりと抱いていると伝えられている。
      加古川市
(現地案内板)
 
       
   生石神社ー石の宝殿ー   酒相山 西岸寺    天王山ー山崎合戦の地ー   
  生石神社(おうしこじんじゃ)ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
TEL079-447-1006
兵庫県高砂市阿弥陀町生石171
御祭神:大己貴神、少彦名命
創建:崇神天皇13(紀元前85)年
日本三奇の一つとも言われる、縦・横・高さとも5.5mを越える巨大で不思議な石造物をご神体とする神社。
三奇とは塩釜神社の塩釜、霧島山の天の逆鉾、石の宝殿である。
天正7(1579)年、織田信長の播磨攻めの際、羽柴秀吉が三木城攻めの陣所として貸すように申し出たが拒否されたため焼き討ちをし、焼け残った梵鐘は関が原の戦で陣鐘として用いたといわれている。
その後、その鐘は、勝利した徳川軍が戦利品として美濃赤坂の安楽寺(大垣市)に寄進された。
ちなみに、当時の宮司は神吉城主 神吉頼定の弟であった。
 
  真宗大谷派 酒相山 西岸寺ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
兵庫県加西市北条町北条1126
後藤又兵衛の甥が僧侶として務めた寺院。
元は北条町内の栗田にあったが承応元(1652)年に移転してきたと言われている。
後藤又兵衛の妹は、神吉城主に嫁いだが羽柴秀吉軍の播磨攻めの際神吉城は落城。
その時、5歳であった息子房太郎は、長じて西岸寺の住職恵覚となった。
寺には後藤又兵衛の槍などゆかりの品が保存されている。
 
  天王山ー山崎合戦の地ーー黒田官兵衛ゆかりの地ー
天正10(1582)年6月2日本能寺の変からわずか11日後の6月13日、天王山の戦いー山崎合戦ーで明智軍は敗退し、光秀は居城坂本城を目指して落ち延びる途中、山中で土民の落ち武者狩りに合いその生涯を閉じた。
その天王山は石清水八幡宮の展望台からも眺めることが出来る。
 
 
       
   郡山城跡    三原城跡    枝吉城址ー黒田官兵衛の母の里明石氏の城ー  
  国指定史跡 安芸郡山城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
昭和15年指定 昭和63年拡大指定
安芸郡山城は、毛利元就・輝元が戦国大名として勢力を拡大していく中、本拠地として大規模化した山城である。
山頂が本丸で、全山に270以上の郭や寺院跡、堀跡など多くの遺構が残されている。
織田の羽柴秀吉軍と戦い、高松城水攻めで講和した毛利家の当主、毛利輝元の居城でもあった。
日本百名城の一つ
(安芸高田市教育委員会現地案内板を参考) 
  三原城ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
織田方の羽柴秀吉軍による毛利攻めに対処するため、毛利の大将の一人で城主の小早川隆景は、ここ三原城に備中七城の城主を招きご馳走を振る舞い刀を授ける。
この時、備中高松城主、清水宗治は、隆景に力の限り戦い、最後はこの刀で切腹する覚悟と断言する。
備中七城とは、境目七城とも呼ばれー宮路山城冠山城
備中高松城鴨庄城(加茂城)日幡城庭瀬城松島城の七城を指す。   
  枝吉(しきつ・えだよし)城址について
ー黒田官兵衛の母の里明石氏の城ー
枝吉城は、戦国争乱の時代が幕をあける十五世紀中ごろ、明石氏によって築城された。
城を台地上にかまえ、その東縁には城主の居館を中心に城下町が形成され、一時は地域の中心として賑わった。
その後、枝吉城は二度の合戦を経て、城下町もそのたびに戦火にあったが、十六世紀末にはキリシタン大名の高山右近重友が最後の城主となり、一世紀半にわたる枝吉城の歴史は終った。
(現地案内板より抜粋)    枝吉城城郭配置図
黒田官兵衛の母いわは、枝吉城主明石宗和ー長行・正風ともーの娘ー享禄4(1531)年生まれー黒田家の主君 御着城主小寺政職の養女。
官兵衛の父職隆との間に二男二女をもうけており、官兵衛は長男。
次男兵庫介ー利高ともーは「黒田二十四騎」の一人として、官兵衛や長政を助けていく。
 
           
   魚住城跡        
  魚住城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
一.魚住城は南北朝時代に赤松氏の一族である魚住長範によって魚住町中尾に築かれた。
一.天正6(1578)年魚住頼治は毛利軍が三木城へ兵糧を運ぶ基地として西嶋の丘に棚を巡らし新しい城を構えた。
天正8(1580)に、三木城の廃城とともに廃絶した。
一.平成10年の発掘調査で魚住城の掘割の一部と考えられる遺構が見つかり、ここに城があったことが確認された。
     明石市教育委員会
(現地案内板) 
魚住城跡の案内板が立てられている所は、新しい住宅団地の中に造られた公園内。
上の写真は、その団地入口にあるグラウンド。
       
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