旅 瀬戸内(たびせと)    吉田郡山城跡ー安芸高田市ーGoogleMap    
   
 
                 毛利家墓所 安芸吉田郡山城跡 清神社  
  吉田郡山城跡
名称 毛利氏城跡郡山城跡
指定年月日 昭和15年8月30日
追加指定 昭和63年2月16日
郡山城は、南北朝時代の建武3(1336)年毛利時親が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全山を城郭化し、さらに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城であった。

郡山城は、北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は約1q四方に広がる。
  遺構は、山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸ほか、御蔵屋敷の壇、勢留の壇、姫の丸の壇など大小約270の曲輪が配され、ところどころに石塁の跡が見られる。
天文9(1540)年9月、尼子晴久が三万の大軍を率いて来攻したが、毛利軍は小勢ながらよく戦い翌年1月尼子軍を敗退させた。
その後、毛利氏は、この城を本拠として、中四国、北九州にまで勢力を伸ばした。

天正19(1591)年輝元の広島城移城後は廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められた。
郡山城は、中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺跡である。
 平成4年3月吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板) 
     郡山城案内図
 郡山城登山所要時間案内図
  吉田郡山城跡への登山について
郡山城跡は、石垣等は江戸時代に壊されているが、地形は当時の様子を良く留めており、中世の城の様子を知るには興味深い城跡である。
私が登ったのは6月始めであったが、全山樹木で覆われており、夏でも直射日光を浴びることはなく登りやすいと思う。
人にもよるが、運動の為に登るにも適当な城跡である。
車の場合、毛利元就墓所のすぐ下の駐車場に車を置いて、墓所側から尾根伝いに登った方が、登り道がなだらかで登りやすい。
猪の習性を良く知らないので何とも言えないが、猪の掘った跡がいたるところに見られるので、猪には注意した方が良いかも。

安芸郡山城案内図ー本丸・二の丸・三の丸・壇・曲輪・旧本城などー
 
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   安芸郡山城跡   三矢の訓跡    毛利元就の墓   
  国指定史跡 安芸吉田郡山城跡 
昭和15年指定 昭和63年拡大指定
安芸郡山城は、毛利元就・輝元が戦国大名として勢力を拡大していく中、本拠地として大規模化した山城である。
山頂が本丸で、全山に270以上の郭や寺院跡、堀跡など多くの遺構が残されている。
日本百名城の一つ
(安芸高田市教育委員会現地案内板を参考)
 
  三矢の訓跡
郡山城跡の山麓にある「少年自然の家」の敷地内に建っている。
この地は、御郷屋敷と呼ばれた毛利元就の居館跡で、毛利元就が死に臨み3人の子、隆元、元春、隆景を枕元に呼び「三矢の訓」を与えた所といわれ、その教えを後世に残すためにこの碑が建てられた。
「三矢の訓」とは、「一本の矢であれば簡単に折ることが出来るが三本の矢を束にすると簡単に折ることはできない。
これからは、三人が力を合わせてやっていくように」という意味の教え。
  毛利元就の墓
毛利元就は、明応6(1497)年、郡山で生まれ、大永3(1523)年、27歳で宗家を相続して以来、郡山の南東にあった旧本城を郡山全山に拡大し、本拠地としての守りを固めていくと共に、戦国大名として中国地方の統一を成し遂げ、元亀2(1571)年6月14日75歳でここ郡山城で波乱に満ちた生涯を閉じた。
元就の死後、この地に元就の墓と共に元就の菩提寺洞春寺が造られた。
その後、洞春寺は毛利家城主が城を移すに従って広島、萩、山口へと移されたが、元就の墓はここで祀られてきた。
明治2(1869)年には、郡山城内、城下にあった毛利一族の墓もここに移葬され元就の墓の下の段に毛利一族墓所として祀られている。
 
 
       
   清神社   安芸高田市歴史民俗博物館    安芸郡山城 旧本城  
  清神社(すがじんじゃ)
神代から鎮座とされる。
格式を備えた稀有な造りで知られる古社。
主祭神は素戔嗚尊、他に稲田姫をはじめ五男三女神をお祀りしている。
郡山の鎮守社として毛利元就公をはじめ一族の崇敬が篤く、出陣の度に「必祥」を祈願され、凱旋の折も「おかげ参り」を繰り返された。
樹齢800年近い正面の大杉は生きている証人。
元就公の遺訓「三矢の訓」にあやかるJリーグサッカーチーム「サンフレッチェ広島」は、結成以来Jリーグ開幕前の必勝祈願を恒例の行事にしている。
現在の社殿は、元禄7(1694)年、輝元公造立のもの。
(現地案内板より抜粋)
  安芸高田市歴史民俗博物館
TEL0826-42-0070
〒731-0501 広島県安芸高田市吉田町吉田278−1
開館時間:9:00〜17:00
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合翌日)
祝・休日の翌日、12月29日〜1月3日
*土曜日・日曜日は原則開館
入館料:個人ー大人300円、小中学生150円
     団体(20人以上)−大人200円、小中学生100円
展示内容:常設展
第1展示室:安芸高田市に関する原始・古代から近世までの歴史・考古資料を模型や映像で紹介
第2展示室:安芸高田市の近現代史を民俗資料を中心に展示
第3展示室:江戸時代から続く清神社の例祭「市入り祭」で行われる子供歌舞伎の舞台「だんじり屋台」の実物を展示
別に企画展あり

安芸高田市歴史民俗博物館ホームページ
  安芸吉田郡山城 旧本城(きゅうほんじょう)
郡山の南東麓にあり、建武3(1336)年毛利時親が吉田荘地頭として城を築いて以来元就が郡山全山を城郭とするまで、十一代約190年間毛利氏が本城とした城である。
旧本城は、背後を3本の堀切で画し、半島状の尾根を独立させたもので、長さ約400mの尾根の上部長さ約200m、面積約4,000uを直線的な階段状に利用した、鎌倉時代の山城の形態がよくわかる城跡である。
頂部本丸は、標高293m、比高約90mで、一辺約37mの平地の背後には櫓台跡があり、南に二段の付曲輪がある。
二の丸は、本丸の東下方約9mにあり、南北70m東西13mの大きな曲輪で、北寄りに井戸がある。
その東に三の丸と呼ばれる二段の平壇がある。
平成4年3月 吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板) 
安芸郡山城案内図
 
   
  本丸跡 安芸吉田郡山城本丸跡   本丸櫓台跡   
  安芸吉田郡山城本丸跡
郡山城の本丸は、郡山の山頂に位置し、一辺約35mの方形の曲輪でなっている。
その北端は一段高くなった櫓台がある。
櫓台は長さ23m、幅10mの広さで現状は破損が著しい。

この地点が一番高く、標高389.7m、比高約200mになる。
  城の遺構は、山頂本丸曲輪群を中心に放射状にのびる6本の支尾根、さらにそれからのびる6本の支尾根、あわせて12本の尾根とそれらに挟まれた12本の谷を曲輪や道で有機的に結合させ、まとまりをもたせた複雑な構造をなしている。
曲輪も大小合わせて270段以上みられる。
 
  大永3(1523)年に毛利元就が郡山城の宗家を相続し、郡山の南東にあった旧本城を郡山全山に城郭を拡大していった。
元就はここを本拠地として、幾多の合戦を経て中国地方の統一を成し就げた。
  平成3年3月
     吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板) 
 
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   安芸吉田郡山城 本丸櫓台跡   安芸吉田郡山城 本丸跡     安芸吉田郡山城 本丸櫓台跡(左)・本丸跡(右)  
         
   郡山城 二の丸跡    郡山城 三の丸跡   郡山城 御蔵屋敷跡   
  安芸吉田郡山城 二の丸跡
二の丸は本丸の南につながり、約2m低く北西にある石列で画した通路でつながっている。
東西36m、南北20mの広さであるが、周囲を高さ0.5m、幅1mの石塁や石垣で27mと15mの方形に区画しており、実用面積は約400uと本丸よりひとまわり小さい。
また、この石塁の外側には、幅0.5mから1mの平坦面もみられる。
南にある三の丸へは、幅1.5mの通路があり礎石も残ることから、小型の桝形をした門、あるいは塀があったと思われる。
(現地案内板より抜粋) 安芸郡山城案内図
  安芸吉田郡山城 三の丸跡
三の丸は、城内で最大の曲輪である。
曲輪内は土塁や削り出し等によりさらに四段に分かれている。
二の丸とは、約3.5m下段にあって、東西40m、南北47mの広さがある。
この西の段からは二の丸・御蔵屋敷につながる曲輪への通路がのびており、しかも西の段下の石垣や階段がみられるところからみて、登城には御蔵屋敷から南側の帯曲輪を経由し、その階段を上がるとこの三の丸虎口(西の段)につながると考えられる。
(現地案内板より抜粋) 安芸郡山城案内図
  安芸吉田郡山城 御蔵屋敷跡(おくらやしきあと)
御蔵屋敷跡は、東西約20m、南北約30m、面積600uの広い敷地を持つ。
北に釣井の壇、東に三の丸、西に勢溜の壇に通じている。
この屋敷の東側に多くの散乱した石が高い石垣もあったと想像させる。
さらにその上の曲輪で通路沿いの一部に石垣(高さ1.2m、長さ3.5m)が残って、当時をしのばせている。
さらにその一段上が二の丸となる。
(現地案内板より抜粋) 安芸郡山城案内図
 
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   毛利元就像    史跡 郡山城石碑   毛利元就火葬場跡   
  毛利元就像
毛利元就は安芸吉田に生まれ生涯を過ごした戦国武将。
明応6(1497)年3月14日に郡山城(一説では母の里鈴尾城)に毛利弘元の二男として生まれ、4歳から27歳までを多治比猿掛城で過ごした後、27歳で郡山城に入城、75歳で亡くなるまで郡山城を本拠地として、二百数十回に及ぶ戦いに勝利し、中国地方一円にまで勢力を拡大した。
  史跡 安芸吉田郡山城阯石碑
郡山城は、南北朝時代の建武3(1336)年、鎌倉幕府の重臣大江広元の四男大江秀光を祖とする毛利時親が、越後国から吉田荘へ移り郡山東南麓に旧本城を築城して以来の本拠地である。
戦国期に毛利元就が郡山全山に城を拡大し、さらに輝元が改修を加えた。
城内には郭跡や寺院跡もたくさん残っている。
 
  毛利元就火葬場跡
毛利元就は、元亀2(1571)年6月14日、お里屋敷で75歳で逝去、波乱の一生を閉じた。
遺骸は、翌15日大通院に移し、正殿に安置し、法名を日頼洞春と称した。
三原妙法寺の住職嘯岳鼎虎禅師を招聘し、6月20日初七日の法会を営んだ後、この火葬場で荼毘に附した。
火葬の際には10間(18m)四方の間に小石を敷きつめ、沈香(ちんこう)を焚きその香りは遠くまで匂ったという。
(現地案内板より抜粋) 
 
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   安芸吉田郡山城 厩の壇跡    安芸吉田郡山城 釜屋の壇跡    安芸吉田郡山城 羽子の丸跡  
  安芸吉田郡山城 厩の壇跡(うまやのだんあと)
本丸の東南方の長さ約400mにも達する長大な尾根の基部にあって、17mと24mの段から尾根に沿って7段と、それから北に分かれる4段の曲輪からなる。
最大の曲輪は、尾根の上中央の基部から3番目の曲輪で、約410uの広さがあり、それから下方へは帯曲輪状の小曲輪を並べている。
北側の4段は基部の曲輪の守りのためと考えられ、いずれも小さい。
なお、基部の曲輪から釜屋の壇へは通路がのび、南側の段へも通路があり、幅3mから5mの付曲輪がある。
この南側下の段が馬場とよばれているところから、厩の壇には厩舎があったところと考えられる。
平成4年3月 吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板)安芸郡山城案内図 
  安芸吉田郡山城 釜屋(かまや)の壇跡
この壇は、20mx24mで、面積約300uの台形をなし、本丸から15m下位にあり、北は姫丸壇へ南は厩(うまや)の壇へとそれぞれ通路が続いている
この壇の郭群は、これからそれぞれ2mから4mの比高差をもって五段続いているがこの段の面積は50uから150uと小さく、石垣等も見られない。
平成4年3月 吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板) 
安芸郡山城案内図
  安芸吉田郡山城 羽子(はご)の丸跡
羽子の丸は、釜屋の壇の先端を、幅7m深さ3mの堀切で隔て、その先端を利用したものである。
先端頂部の曲輪から南へは11mから5mの比高差をもって三段、東へは1mから3mの比高差をもって三段があり、それらを帯曲輪でつなぎ、さらに付曲輪を加えるなど、堅固なつくりを構えている。
特に、頂部の曲輪は面積650uもあり、これだけでも城として独立しうる機能をもっていたと考えられる。
羽子の丸は、本丸からすると艮(うしとら)−北東ーの位置にあり、可愛川の東流部から、甲田町方面を望む枢要な位置にあり、要所と考えられる。
平成4年3月 吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板) 
安芸郡山城案内図
 
         
   安芸吉田郡山城 姫の丸壇跡   安芸吉田郡山城 釣井の壇跡    安芸吉田郡山城 勢溜の壇跡   
  安芸吉田郡山城 姫の丸壇跡(ひめのまるだんあと)
本丸の北にのびる峰にあり、基部の段は通路で、西は釣井の壇へ、東は釜屋の壇へつながる。
ここから北への三段もほとんど比高差をもたず連なり、さらに北へ三段あるが、主要には基部の三段が機能していたと思われる。
基部の両側には一部に石垣も残っている。
この壇に基礎を置いた本丸の石垣中に、元就築城のとき「百万一心」の礎石を埋めたとの伝説があり、文化十三(1816)年夏長州藩士武田泰信がこの石を見て、拓本にとり持ち帰ったと伝えている。
平成4年3月  吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板
安芸郡山城案内図
  安芸吉田郡山城 釣井の壇跡(つりいのだんあと)
釣井の壇は、長さ75m、幅15m、面積約1,000uの長大な曲輪である。
曲輪の基部には石垣が見られる。
北に姫丸の壇、南は御蔵屋敷に通じ、ここから東側二段上が本丸である。
直径25mの石組井戸があり、本丸に最も近い水源である。
この井戸は、現在埋もれて深さ約4mになって水は湧いていないが、埋れた土を掘ればかってのように水をたたえると思われる。
平成3南3月  吉田町(安芸高田市)教育委員会
(現地案内板) 
安芸郡山城案内図
  吉田吉田郡山城 勢溜の壇(せだまりのだん)
勢溜の壇は、本丸の峰から南西へ長くのびる尾根を、御蔵屋敷の下段を堀切で区切って独立させ、十段の大型の曲輪からなる壇で、尾根沿いに比高差約1mで、面積約500uから700uの広さの曲輪を四段連ね、その先にこれらを取巻く帯曲輪を三段、さらにその先端には付曲輪を加えている。
この曲輪群では、特に東南方の大手、尾崎丸方向への防御は厳重で、たとえ、この方面を破っても、この三重の帯曲輪で防ぐことができ、現在の登山道が当時のものとすれば、さらにこの上の勢溜の壇の曲輪群から攻撃できる構造になっている。
ここには本丸守護の兵が滞在していたことがうかがえる。
 平成4年3月  
  吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板) 
安芸郡山城案内図
 
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   勢溜の壇下の登山道    安芸吉田郡山城 満願寺跡   安芸吉田郡山城 妙寿寺郭群   
      安芸吉田郡山城 満願寺跡(まんがんじあと)
満願寺跡は、郡山城跡の三の丸の西南で御蔵屋敷の南、難波谷を登りつめたところに位置する。
現在でも境内の北側に、東西に二つの蓮池が残っている。
毛利氏が入城する以前のかなり古くからあったと伝えられ、寺伝によると天平12(740)年に行基菩薩が当地にこられ、可愛川釜ヶ淵で、小さな観音を得られ、自ら大きな千手観音木像を彫刻し、満願寺を建て、これを安置したということに始まる。
大永3(1523)年元就の本家相続が決定し郡山入城の日(8月10日の申酉の刻)が決められたことや、永禄10(1567)年には越前の幸若大夫が満願寺に滞在し幸若舞を舞ったこと、同12(1568)年には、観世幸若大夫宗節一座の能狂言が行なわれたこと、さらに、元亀3(1572)年には、法華経読踊千部会が行なわれたことなど記録にある。
この寺は毛利氏の移城に伴い、広島に移り、さらに、萩城内に移っていたが現在は防府市にある。
 平成3年3月 吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板) 
安芸郡山城案内図
  安芸吉田郡山城 妙寿寺郭群(みょうじゅじくるわぐん)
妙寿寺郭群は、長さ41m、幅24m、面積約1,000uで、周囲を石垣や石塁で画した方形の曲輪を中心に、それから東西にのびる幅10mから15mの帯曲輪状の曲輪、およびそれらに伴う小曲輪群からなる。
この小曲輪群は、南を守るための通路として利用されたものらしく、特にこの西側の曲輪群は、満願寺からの道を正面で壁として防ぐ、桝型を意図したものと考えられる。
なお、妙寿寺は、毛利家の祈祷所ならびに毛利煕元(ひろもと)の菩提所、また毛利隆元夫人の菩提所でもあったと伝えられ、江戸末期の文久年間には、浅野支藩の火薬庫も設けられている。
 平成4年3月 
  吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板) 
安芸郡山城案内図
 
         
   安芸「吉田郡山城 尾崎丸   旧本丸への入口案内板    安芸吉田郡山城 展望台   
  安芸吉田郡山城 尾崎丸跡(おさきまるあと)
尾崎丸は、満願寺仁王門のあった峰の中腹を堀切で隔て、その先端も本城との間の鞍部(あんぶ)を利用した三条の堀切で隔てた独立的な曲輪群である。
中心の尾崎丸は、長さ42m、幅20mとこの曲輪群最大の曲輪で、北側は堀切と土塁で画し、土塁上段に一段、下段に約3mの高さを持つ二段の小曲輪を配置し、さらにその下には約2mの差をもって、小さな付曲輪と長大な帯曲輪を配置し、守りを固めている。
なお、尾崎とは毛利隆元が尾崎殿と称されていることから、隆元の居所と考えられる。
 平成4年3月
   吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板)
安芸郡山城案内図
  旧本丸への入口が安芸郡山城の本丸と郡山公園の中間付近にあることがわかる。   安芸高田市街ー安芸吉田郡山城展望台よりー
展望台は郡山城跡の山裾近く、郡山公園の少し上にある。
 
安芸高田市吉田町展望図
 
         
  展望台下の公園     毛利元就墓所下の駐車場と展望台を結ぶ通路   安芸吉田郡山城 常栄寺跡   
          安芸吉田郡山城 常栄寺跡(じょうえいじあと)
常栄寺跡は、毛利隆元(たかもと)の菩提寺である。
永禄元(1563)年隆元の没後、元就(もとなり)は、隆元の尊師山口の国清寺(こくしょうじ)の僧、竺雲恵心を招き、開山とした。
寺は、翌永禄7(1564)年扶桑十刹に列し、勅願道場とせられ、正親町天皇の「常栄広刹禅師」の勅願を受けた。
天正19(1591)年の分限帳によると千四百八十石五斗余を領している。
寺跡は、二段の曲輪からなり、上の段は60mx25m、下の段は40mx10mでかなりの広さを持つが、建物の配置は明らかでない。
毛利氏の防長移封後、山口に移った。
現在の常栄寺は、雪舟庭としても有名である。
  平成2年3月  
    吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板)
 
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   大通院谷遺跡    郡山城内堀ー薬研掘跡ー    大通院谷川砂防事業地  
  郡山大通院谷遺跡(こおりやまだいつういんだにいせき)
調査年:平成8(1996)年〜平成15(2003)年
調査面積:17,000u
大通院谷川砂防工事に伴い発掘調査された旧石器時代から近世までの複合遺跡。
特に古代・高宮郡衙(たかみやぐんが)の関連施設とみられる遺構群と戦国時代毛利氏の本拠城・郡山城の城域の一部と見られる薬研掘、屋敷跡などの貴重な遺構が、総数二十万点という多数の遺物と共に検出された。
安芸高田市で初めて出土した時代の遺物も多く、市の歴史を塗り替える重要な遺跡調査となった。
平成22年3月 安芸高田市教育委員会
(現地案内板)
  郡山城内堀ー薬研掘跡ー
郡山大通院谷の東側山裾に沿って、約100mを検出した断面V字形の堀・薬研掘。
堀はさらに上下に続いているが、ここを起点に郡山山麓を廻る内堀となっている。
十六世紀中頃〜後半毛利元就・輝元時代に造られたとみられる。
薬研掘の発掘調査例では、国内で最も長い。
(現地案内板) 
     
   
       安芸郡山城跡パノラマ      
         
   安芸高田少年自然の家    お里茶屋   青光井山尼子陣所跡   
   安芸高田少年自然の家「輝ら里(きらり)
TEL0826-47-1331
〒731-0501 広島県安芸高田市吉田町吉田406

安芸高田少年自然の家「輝ら里」ホームページ
  お里茶屋ー安芸高田市ー
TEL0826-42-1011 公益法人 安芸高田市地域振興事業団
〒731-0501 広島県安芸高田市吉田町269−4
元就弁当
元就弁当+茶碗蒸しなど
営業時間:11:00〜16:00
利用者人数10名以上の予約制
 
  青光井山尼子陣所跡 
町(現安芸高田市)史跡指定 昭和43(1968)年9月1日
手前の多治比川をはさんで向こうに見える山は、左が青山で、右が光井山で、総称して青光井山と呼んでいる。
天文9(1540)年9月尼子詮久−晴久−が率いた三万の大軍は、天文11(1541)年正月ころまでの五ヶ月あまりにわたり、毛利元就と対峙し、郡山合戦を繰り広げたところである。
眼下に見える町並みは、当時は水田が広がっており、そこが攻防の場であった。
附近には今でも郡山合戦にまつわる地名や伝説が数多く残されている。
 平成8(1996)年7月  
  吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板より抜粋) 
 
         
   毛利元就墓所入口・毛利元就火葬場跡横駐車場    多治比猿掛城跡   鈴尾城跡ー毛利元就誕生伝説地ー   
  毛利元就墓所入口・毛利元就火葬場跡横駐車場
毛利元就墓所入口横駐車場は、毛利元就墓所入口のすぐ横。
毛利元就火葬場跡横駐車場は、毛利元就墓所入口横駐車場のすぐ下で毛利元就火葬場跡横。
  多治比猿掛城跡(たじひさるかけじょうあと)
多治比猿掛城跡は、郡山城跡から多治比川に沿って、北西4q上流にある。
石州路に通じる交通の要衝で、郡山城の北方を守る重要な位置にあった。
毛利元就が青少年期を過ごした城として知られている。
元就は4歳の時、明応9(1500)年家督を長子興元に譲り、隠居した父弘元に連れられ、郡山城からこの城に移り住んで以来、大永3(1523)年27歳の時に、甥の幸松丸夭折(ようせつ)のあとをうけて、毛利家の家督を承継し郡山城に入城するまで、この城にいた。
中心部曲輪群をおき、その背後には深い堀切、尾根続きに物見丸、中心部から北下方に寺屋敷曲輪(くるわ)群があり、竪堀もみられ、谷をはさんで出丸がある。
山麓には悦叟院(えそういん)の寺跡があって、そこに毛利弘元・同夫人の墓所がある。
 平成元年3月 
  吉田町(現安芸高田市)教育委員会
(現地案内板より抜粋)
       多治比猿掛城跡案内図
  鈴尾城(別名福原城)ー毛利元就誕生伝説地ー
福原氏は大江氏の子孫である。
大江広元の次男時広は、武蔵国長井荘を領してから姓を長井とし、四男秀光は相模国毛利荘を領してから姓を毛利とした。
永徳元(1381)年毛利元春の五男広世は長井氏を相続して第六代の当主になり、父元春から安芸国内部荘福原村を譲られてこの地、鈴尾城(福原城)に移り住み姓を福原と改めた。
第八代 広俊の娘は毛利広元の妻となり、長男興元が誕生し、次男元就は明応6(1497)年3月14日、母の里であるこの城内で誕生したという。
天文9(1540)年の郡山合戦では第十代広俊がこの守備にあたり西に備えた。
鈴尾城跡は別名福原城とも呼ばれ、前面には江の川が流れ、標高316m、比高110mの頂部に本丸等十壇の郭を配し、西側下の井の壇に直径1.0m、深さ6mの石組みの井戸があり、東側斜面には居館跡と伝えられる広大な平たん部がある。
そこは、毛利元就誕生地として伝えられ碑が建てられている。
 
(現地案内板より抜粋) 鈴尾城跡案内図
 
           
   毛利隆元逝去の地          
  毛利隆元逝去の地
隆元は尼子討伐に雲州に出向している父元就を助けるため、永禄6(1563)年7月12日吉田を発って、ここにあった蓮華寺に滞在して兵士を部署し、8月5日に出雲に赴く予定であったが3日和智誠春の供応を受け宿舎蓮華寺に帰って急病を発し、4日の払暁41才の若さで逝去した。
遺骸をここで火葬した。
その火葬場あとに建てられたのが隆元の墓と呼ばれるこの石碑である。
    高宮町(現安芸高田市)教育委員会 高宮町(現安芸高田市)文化財保護審議会
(現地案内板)
         
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