旅 瀬戸内(たびせと)    加古川城跡ー称名寺ーGoogleMap    
   
   
  加古川城跡ー称名寺ー 仏頂山 称名寺   称名寺 七騎供養塔  
  加古川城跡ー称名寺ー
鎌倉時代、糟屋有教により築城。
12代城主糟屋武則の時の天正5(1577)年、羽柴秀吉による毛利討伐の軍議(加古川評定)が播磨中の領主達を集めてこの城で開かれた。
この時、三木城主の別所長治は姿を見せず代わりに名代として毛利びいきの叔父別所吉親(賀相)が出席、志方城主で官兵衛の義兄櫛橋左京進と共に造反を宣言、追従する過半数の領主達を従えて出て行ってしまった。
これが三木の干殺しで有名な三木合戦の始まりとなり、野口城、神吉城、志方城、御着城など別所氏側に付いた城が攻め落とされることとなる。
糟屋武則は、黒田官兵衛の説得により秀吉側に付き、秀吉の小姓頭となる。
初陣の野口城攻めを皮切りに、山崎の戦にも従軍、また、賤ケ岳の戦では、七本槍の1人に数えられる活躍を見せ最終的には12,000石の大名に出世した。
しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に付いたため領土を没収され糟屋家は断絶、江戸時代に入って間もなく元和元(1615年)年に破却された。
城跡は称名寺となっており遺構は、堀だったと思われる水路などがわずかに存在するのみ。
  仏頂山 称名寺
TEL079−422−2262
〒675−0037 兵庫県加古川市加古川町本町313
真言宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来。
寺の付近一帯は加古川城跡。
天正5(1577)年加古川城で加古川評定(信長軍と毛利軍が戦うきっかけとなった会議)が行われた。
また、糟谷(内善正)武則(12代加古川城主)は、黒田官兵衛の推挙により羽柴秀吉に仕え、三木合戦においては箕谷ノ上付城(三谷ノ上付城)に布陣して活躍したとされている。
また境内には地人が憐れんで建てた南北朝時代の7人の武者の7騎供養塔があ。
これは南北朝時代、出雲守塩冶高貞が加古川で追手に襲われた際、主君を守ろうとして奮死した従臣7名を供養するため建てられたものです。
後に塩冶高貞は、人形浄瑠璃等の代表的な演目「仮名手本忠臣蔵」に登場する塩冶判官のモデルとして取り上げられ、忠義話として紹介された。
山門を入るといちょうの大木があり、このいちょうの木は昔から加古川の町の目印であった。
      加古川市
(現地案内板) 
  称名寺 七騎供養塔
南北朝時代、正平5年、出雲守塩冶判官高貞が、事実に相違する告げ口によって京都を追われ、本国の出雲へ落ちて行く時、加古川で足利尊氏の軍勢に襲われた。
その時主君を守ろうとして奮死した従臣7名を供養するための塚が加古川の船頭町付近に建てられていたが洪水等で流されてしまった。
その後、、山田左右衛門が願主となり、この七騎追弔のため、加古川の小石に法華経を一石に一字づつ書いて埋め、供養塔として建てようとしたが、それを果たさず亡くなってしまった。
その意志を継いだ、寺家町の川西彦九郎、志方町の桜井九郎左衛門が施主となって文政3年にこの七騎供養塔を完成させた。
撰文・書共、頼山陽による。
(現地案内板を参考) 
 
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   台石に家型石棺の蓋が使われた碑 称名寺 不動堂   称名寺 本堂  
  台石に家型石棺の蓋が使われた碑ー称名寺の文化財ー
長さ  131センチ
幅    73センチ
厚さ   27センチ
他に称名寺の文化財としては

加古川城址
石幢
         
   
   毘沙門堂 称名寺 大師堂   称名寺 観音堂  
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   称名寺 犬伏八幡宮    称名寺 大イチョウ    称名寺 山門  
       
   称名寺 外回り   称名寺 外回り     
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