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頼朝配流の地 蛭ヶ小島 | 香山寺 | 山木判官平兼隆館跡 | ||||
源頼朝配流の地 蛭ヶ小島とその周辺 永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34才で旗揚げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなる。 北条時政が大番役の一人として京に上り伊豆を留守にしている間(1177年頃)、31歳の源頼朝と21歳の北条政子は恋に落ちました。 源氏の御曹司と結ばれたことが表沙汰になると面倒なことになると考えた時政は、政子を伊豆国の目代である山木判官平兼隆の元に嫁がせようと企てますが、祝言の晩政子は山本館を脱出し、熱海の東方伊豆山の走湯山権現に逃げ込みました。 当時の伊豆山権現は格式の高い神社である上、多数の僧兵が山にこもっていたので、平兼隆も北条時政も手出し出来ず、政子のしたためた手紙を受け取った頼朝は、伊豆山に行き、政子と相会することができたのです。 かくて頼朝と政子は、伊豆山権現の保護によって、そこでめでたく夫婦になることができました。 「吾妻鏡」治承4年の記事によれば、山木攻め(頼朝旗揚げ)の頃は、妻政子の父、北条時政の館(当地より西方約1.5qの守山北麓)に居住し館内で挙兵準備を整えたとある。 このことから考えると、頼朝は、北条政子と結ばれる治承元年(1177)頃までの約17年間を、ここ蛭ヶ島で過したものといえよう。(現地案内版参考) 蛭ヶ小島の近くには、 山木判官平兼隆館跡や平兼隆の菩提寺、香山寺がある。 伊豆の国市案内地図 |
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北条政子産湯の井戸 | 北条氏邸跡 | 願成就院 | ||||
願成就院 願成就院は、文治5年(1189)、源頼朝公の奥州藤原氏征伐の戦勝を祈願して、幕府初代執権北條時政公が建立し「願成就院」と称したことに始まる。 境内には、北条時政公の墓所があり、門前、向かって左の広場には、「国指定史跡 願成就院跡」の石碑が建てられている。 運慶作の仏像を見ることができる。北条氏の菩提寺。 近くには、北条氏邸跡や北条政子産湯の井戸、頼朝と恋に破れ、悲恋の入水をした伊東八重姫をまつる御堂のある眞珠院がある。 |
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守護山 眞珠院 | 修善寺 | 独鈷の湯 | ||||
修善寺 創立:大同2年(807) 開基:弘法大師 宗派:真言宗 その後臨済宗、曹洞宗と開宗 本尊:大日如来像(重文)ー母北条政子が頼家公の菩提のため、七回忌に当たる承元4年(1210)に実慶に造らせた仏像 ここ修善寺では、正治元年(1199)、父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家が、北条氏との政争に破れ、この地に流され、元久元年(1204)に僅か23歳で、北条時政により入浴中に暗殺されている。 |
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指月殿 | 源頼家の墓 | 源頼家家臣 十三士の墓 | ||||
指月殿 鎌倉幕府第二代将軍頼家の冥福を祈り、母北条政子が建立したもので、伊豆最古の木造建築といわれている。 源頼家の墓 正治元年(1199)に父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家は、在位わずか6年でこの修善寺に流され、元久元年(1204)祖父北条時政(ほうじょうときまさ)の手で入浴中に暗殺された(享年23歳)。 この碑は、元禄16年(1704)頼家の500周忌にあたって、時の修善寺住職筏山智船和尚が建てた供養塔で、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔である。 源頼家家臣 十三士の墓 吾妻鏡によると、頼家が暗殺された6日後、頼家の家臣らは謀反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに殺されたことが記されている。 この墓はその頼家の家臣13名の墓と伝えられている。 |
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日枝神社 | 源範頼の墓 | 筥湯 | ||||
日枝神社 日枝神社は修善寺の鬼門に当り、弘法大師の建立と言われている。 明治元年(1868)の神仏分離令により分離されたもので、もとは修善寺の山王社ー鎮守−であった。 また、義経の兄、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存)もある。 源範頼の墓 源義朝の第6子で蒲冠者と呼ばれた。 治承4年(1180)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。 その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。 建久4年(1193)の曽我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼があるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。 範頼は百方陳弁に努めたが、ついに修善寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。(現地案内版参考) 筥湯(はこゆ) かって修善寺川沿いにあった七つの外湯のひとつで、元久元年(1204)7月18日に当地に幽閉されていた鎌倉幕府二代将軍源頼家が、入浴中に北条氏の刺客に襲撃された温泉であったと伝えられている。 |
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三島大社 | 城願寺 | 伊豆箱根鉄道 韮山駅 | ||||
三嶋大社 源頼朝は、三嶋大社の祭礼の日、手薄になった山木判官兼隆館を襲撃し勝利した。 このことから頼朝の戦勝祈願社として厚く崇敬されている。 城願寺 城願寺は、源頼朝を庇護した「頼朝七騎」の中心人物である土肥実平が再興した寺で、一族の墓所と実平お手植えのビヤクシンの古木がある寺として知られている。 この寺の下付近には、土肥実平の館があったとされている。 |
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伊豆箱根鉄道 修善寺駅 | 小田原駅 | 韮山城跡 | ||||
韮山城跡 韮山城とは 明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した中世城郭、早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。 永正16年(1519)早雲が没したのも韮山城である。(現地案内版) この韮山城は、「平家物語」ゆかりの地とは違いますが、近くを訪れたので撮影し掲載しました。(現地案内版) |
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江川家住宅 | 韮山郷土資料館 | |||||
重要文化財 江川家住宅 江川氏の遠祖宇野氏は大和の国に住む源氏の武士であったが、保元の乱(1156)に参戦して破れ、従者13人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられる。 現存の家屋の主屋は室町時代(1336〜1373)頃に建てられた部分と江戸時代初期頃(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。 この主屋は昭和33年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた。(現地案内版) 韮山郷土資料館 韮山の歴史は古く、原始時代までさかのぼれます。 ここでは弥生時代後期の農耕集落である山木遺跡や大塚古墳群の出土品の他、幕末の韮山代官、江川坦庵公遺品を展示、公開しています。(現地案内版) |