旅 瀬戸内(たびせと)

平賀源内先生遺品館・旧邸・記念館
平賀源内先生遺品館 GoogleMap
源内先生は、日本文化の爛熟した江戸時代中期に生まれ、まず本草家として日本初の博覧会=薬品会を開催して名を挙げ、鉱山開発を行い、戯作・浄瑠璃を作っては作家の親玉と言われ、西洋画を描いては秋田蘭画の仕掛人となり、陶器を作っては源内焼の流れを作り、エレキテルの復元をはじめ数々の発明品を創り出し、変化龍の如く、その多彩な才能を発揮して、広範囲の分野で活躍しました。
先生は獄中で悲劇の生涯を閉じられましたが、洋学の黎明期に果たされたその偉業は広く認められ、その死は惜しまれました。
先生を顕彰する思いは明治13年の没後100年祭から始まり、昭和4年には150年祭とともに平賀源内先生顕彰会が発足しました。
松平頼寿(貴族院議長)を会長に、東京での墓地修復、「平賀源内全集」の発刊、地元では旧邸・遺品の保存、銅像の建設等が行われました。そしてこの遺品館は、200年祭記念にあたり昭和54年3月25日新築しました。
源内先生の先見性や独創性、また広い視野と柔軟な発想で現実に立ち向かった行動力を、ご来館の皆様に感じ取っていただければ幸いです。
      財団法人 平賀源内顕彰会
(現地案内板より)

平賀源内先生旧邸
今から二百数十年前、日本の夜明けとも言うべき時代に現われ、数奇な運命をたどった源内先生は、高松藩の軽輩御蔵番の子として、ここ志度町新町に生まれた。
先生は幼名を伝次郎、四方吉(よもきち)。元服して国倫(くにとも)。通称を源内と呼んだ。また号を鳩渓、風来山人、天竺浪人。作家として福内鬼外、俳諧では李山と称した。
宝暦2年、新知識の輸入地である長崎に留学し、主として医学、本草学を修め、帰郷後は磁針計、量程機の発明、陶器の製造など藩に新風を吹き込んだが、世間の風当りは強く、
27才の時退官を願い出て江戸に立ち、田村藍水に師事する一方昌平黌にも学んだ。
宝暦7年、藍水と共に日本で最初の物産会を江戸湯島で開催、その後は自ら会主となった。高松藩では先生が名声を博するや、一方的に薬坊主格、切米銀十枚、四人扶持の藩士
に召しかかえたが、先生は再び俸禄を辞した。その後伊豆に於ける芒硝の発見、紀州物産誌の編纂、物類品(しつ)の刊行をはじめ、火浣布の創製、秩父中津川鉱山の発掘、寒
熱昇降器の発明、源内焼、西洋画の教授、日本で初めてのエレキテルの復元など世人を驚かせた。
この外、滑稽小説「根南志革」「放屁論」、「風流志道軒伝」や浄瑠璃「神霊矢口の渡」、「弓勢智勇湊」、「忠臣伊呂波実記」などの作品をつぎつぎに発表して江戸の人気を博した。
安永8年、ふとしたことから人を傷つけ、同年12月18日、伝馬町の獄中で52才の心なじまぬ生涯を終えた。友人杉田玄白は、ひそかに遺体を引き取り浅草総泉寺に埋葬。そのほとりに
碑を建て「あゝ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何そ非常の死なる」と記し、先生の一生を讃えた。
この旧邸は昭和54年3月25日源内先生二百年祭にあたり修復したものである。
     財団法人 平賀源内先生顕彰会
(現地案内板より)
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