旅 瀬戸内(たびせと)    宿場町ひらふくー平福ー GoogleMap    
             
     
     利神城址  
     
    川端風景    平福の街並み  
  宿場町ひらふくー平福ーと利神城(りかんじょう)−雲突城(くもつきじょう)−
赤松一族から最北端の防備の任をうけた別所敦範(あつのり)により貞和5年(1349)に築城。
その後、別所一族が薬二百年間この地を治めるが、天正6年(1578)秀吉の中国攻めにからみ山中鹿之介に攻められ落城。
その後、姫路城主池田輝政(てるまさ)の甥(おい)、由之(よしゆき)により慶長5年(1600)から約5年の年月をかけて行った大改修で現在の城となる。
標高373メートルの利神城の山頂に三層の天守丸を配した連郭式山城は、東西300メートル、南北500メートルにも及ぶ総石垣造りの広大な山城で、別名を雲突城とも呼ばれた。
これを見た輝政は、余りにも壮大であるため天守破却の命を下し由之は退去させられる。
寛永6年(1631)最後の城主、輝興(てるおき)が赤穂へ転封。
これにより平福は、城下町としての歴史を閉じ鳥取藩の本陣を置く宿場町として栄えることとなる。
(道の駅「宿場町ひらふく」にある案内板より)「星の都」佐用町案内図 宿場町平福案内図
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   平福本陣跡    金刀比羅神社    紫雲山 光勝寺  
   
       宿場町平福・利神城跡      
       
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  武蔵決闘の地
武蔵は天正12年(1584)、父・平田無仁斎(むにさい)、母於於政(おまさ)の間に生まれたが、間もなく生母と死別、無仁斎は利神(りかん)城主・別所林治(しげはる)の娘、率子(よしこ)を後妻に迎える。
この義母に育てられた武蔵は、7歳の時父と死別、母・率子(よしこ)は平福に帰り田住政久(たずみまさひさ)の後妻となる。
幼少の武蔵は、母恋しさのあまり、しばしば義母の居る平福を訪ねる。
9才のころ正蓮庵(しょうれんあん)の僧・道林坊(どうりんぼう)にあずけられ、その訓育(くんいく)を受ける。
道林坊の弟・長九郎(ちょうくろう)により剣を習うや、その力は著しく伸長する。
武蔵13才の時、運命的な初決闘が、ここ平福の町外れ金倉橋のたもとで行われる。
新当流(しんとうりゅう)の達人、有馬喜兵衛(ありまきへい)なる兵法者の、決闘を誘う挑発的な高札(こうさつ)に応じ、木刀で対峙(たいじ)するや、一刀のもとに喜兵衛(きへい)を打ち倒し、いずことなく旅立っていくこととなる。
出奔(しゅっぽん)の一説には、佐用郡一の古社、佐用都比賣(さよつひめ)神社に参籠(さんろう)、武運を祈願の後、諸国修行に旅立ったとされる。
爾来(じらい)、生涯60数回に及ぶ決闘に、不敗の剣豪として名を成していくことのなる。
 
           
   金倉の六地蔵   智頭急行鉄道 平福駅       

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