旅 瀬戸内(たびせと)

平家物語と京都(平家物語ゆかりの地を歩く旅)
         
  六波羅蜜寺     白河院跡   忠盛燈籠(ただもりとうろう)  
  平家物語と京都
皇室との縁を深めていった平家を中心に描いた「平家物語」の本拠地は何といっても京都。
平家物語の主人公、平清盛が平治の乱からわずか8年で太政大臣という最高の位につくことができたのも、清盛が白河院の御落胤であったからであるといわれている。
京都の東山山麓から鴨川にかけての地域は、平家の館が建ち並んだ六波羅。
白河院をはじめとする皇族・貴族の別荘地であった白河、平家から源氏の世に代わる30余年という長期の間院政を行った後白河院の御所であった法住寺から長講堂。
重盛の小松邸跡であった小松谷正林寺、高倉天皇ゆかりの静閑寺、平家の人々が深く信じた浄土思想、法然上人ゆかりの寺々はこの地域に集中している。
他にも、京都御所周辺、祇王寺のある嵯峨野、建礼門院閑居の寺「寂光院」のある大原、源義経の修行の地、鞍馬など枚挙にいとまがない。
 
 
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  六波羅とその周辺    建仁寺    平安神宮から鹿ヶ谷へ  
六波羅とその周辺
六波羅は、六原とも呼ばれ、平安時代の葬送地、鳥辺野への入口で、現世から六道が存在する来世への通過地点とされ、六道の辻地蔵堂や六道珍皇寺などが建てられ信仰の地として栄えていた。
天暦5(951)年空也が西光寺を創建し、後に六波羅密寺と改名したことから「六波羅」と呼ばれるようになった。
まず平正盛が一族のための供養堂を建立、その子忠盛が「六波羅館」を置き、清盛の時代になって平氏の拠点となり平家一門の邸宅が軒を連ねるようになった。
平安神宮から鹿ヶ谷付近
平安神宮から、南禅寺、哲学の道にかけての一帯は、鴨川と白川に挟まれた白河と呼ばれる地域で、平安時代後期、当時の天皇により次々と寺が建てられ、また、院政が行われる御所ともなった。
白河をさらに東山に向かって歩いて行くと、「鹿ヶ谷」と呼ばれる地域となり、琵琶湖疏水の一つである「鹿ヶ谷疏水道」に沿った「哲学の道」があり、この道沿いには、法然上人ゆかりの「法然院」や「安楽寺」、後白河法皇が、熊野権現を勧進して建立した熊野若王子神社などが自然に囲まれて建っている。
「鹿ヶ谷」といえば、平家物語では、俊寛僧都の山荘があった所で、平家打倒の陰謀の場所としても知られている。
       
  法然上人遺跡と祇園精舎    建礼門院と大原御幸    法金剛院と待賢門院陵  
法然上人遺跡と祇園精舎
青蓮院から知恩院、吉水の草庵のあった安養寺、長楽寺は、法然上人や親鸞聖人など平家物語の時代に浄土思想を広めた僧ゆかりの寺である。
また、青蓮院は、平家物語の生みの親といわれているうちの一人慈円僧正が、第三代門主を務めた寺でもある。
平安時代末期には、知恩院の三門のあたりから双林寺付近にかけては、「真葛ヶ原」と呼ばれる、真葛やススキ、萩などが生い茂る原野であり、その山側に吉水の草庵や長楽寺が建っていた。
建礼門院と大原御幸
京都大原の里の寂光院は、文治元(1185)年平家が壇ノ浦で滅亡後、建礼門院閑居の寺として知られている。建礼門院閑居の翌年の春には、義父、後白河法皇がこの寂光院を訪れている。
法金剛院と待賢門院陵
法金剛院(ほうこんごういん)は、京都では数少ない律宗寺院である。極楽浄土に見立てた浄土式庭園は有名で、平安末期の姿をとどめている。
平安時代の初め、右大臣清原夏野の山荘を寺に改め、双丘寺と称したのが当寺の起こり。大治5(1130)年に鳥羽上皇の中宮待賢門院が再興し、寺名を法金剛院と改めた。
四季折々の美しい景観は、待賢門院を深く慕ったといわれる西行の歌にも詠まれている。
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御室仁和寺 嵐山・嵯峨野 宇治川の合戦
御室仁和寺
仁和寺は、仁和4年(888)に宇多天皇により完成した勅願寺で、また皇子・皇孫が門跡を努めたことから門跡寺院の筆頭とされて「御室御所」といわれている。
平安時代の仁和寺には、「平家物語」では、崇徳上皇平経正源義経などがかくまわれ、また、別れに訪れている。
真言宗仁和寺第5世門跡覚性法親王 真言宗仁和寺第6世門跡守覚法親王
嵐山・嵯峨野
春は桜、秋は紅葉に彩られる嵐山・嵯峨野方面は、平安貴族たちの遊興の地であったといわれている。
この地は、また、平清盛の気変わりや怒りで「うとまれる」ようになった女性たちの隠遁の地でもあった。
宇治川の合戦
平家物語では、宇治川の合戦が二度出てくる。
最初の合戦は、以仁王と源頼政の乱による橋合戦、もう一つは、源義経軍と木曽義仲軍による合戦で、梶原源太景季と佐々木四郎高綱による先陣争いは有名。
平等院の塔頭、最勝院には、源頼政の墓が、浄土院境内には顕彰碑がある。
また、宇治川に浮かぶ橘島には宇治川先陣の碑、宇治橋を管理する寺、橋寺放生院が、境内には宇治橋断碑がある。
鳥羽離宮跡 上賀茂神社 平安宮遺祉
鳥羽離宮跡
鳥羽離宮は、平安時代後期に白河上皇の院政開始の象徴として造営が開始された御所と御堂および苑池からなる広大な離宮である。
院政最盛期の証でもある鳥羽離宮は、当時の最高の文化と技術を駆使して築かれたが、院政の終焉とともに衰退し、地上からその姿を消していった。
上賀茂神社
賀茂別雷神社の創建は古く、7世紀末にはすでに有力な神社となっており、さらに平安建都以降は国家鎮護の神社として朝廷の崇敬を集めていた。
社殿は11世紀初頭までに現在に近い姿に整えられたが、その後衰微し、寛永5年(1628)に再興された。
この時の整備は境内全体におよび、記録や絵図を参考に平安時代の状況が再現されている。
平安宮遺祉
平安宮の大極殿は、桓武天皇の平安遷都(794年)の翌年(795年)には完成している。その位置は、現在の御所よりは西の千本丸太町交差点の北側付近であった。
その後、数度焼失と再建が繰り返されたが、安元3年(1177)の大火で全焼しその後この地に再建されることはなかった。
従って「平家物語」の時代も、前半の鹿ヶ谷事件の頃までは、この位置で主要な国事が行われていたことになる。
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そば処 竹邑庵 白峯神宮 護王神社
白峯神宮
当神宮は、崇徳天皇及び淳仁天皇を祀る。
明治天皇は父孝明天皇の遺志を継ぎ、保元の乱により讃岐国(香川県)へ配流になった崇徳天皇の慰霊のため、明治元年(1868)讃岐の白峯陵より神霊を迎えて、創建された。
次いで明治6年(1873)には奈良時代に僧道鏡と恵美押勝の争いにより、淡路島に配流の淳仁天皇の神霊を迎えて合祀された。
護王神社
桓武天皇に遷都を進言し平安京の都造りを推し進めた和気清麻呂(わけのきよまろ)とその姉広虫(ひろむし)を祭神とする神社。もとは神護寺境内にあったが明治19年(1886)この地に移された。
京都御苑 京都ガーデンパレス 下鴨神社
京都御苑の歴史
明治2年(1869)の東京遷都に伴って御所周辺は荒廃し、明治10年(1877)、京都に還幸された天皇は、この状況を悼み、整備の御沙汰を下されました。
これを受けて皇室苑地として整備されたのが現在の京都御苑の始まり。
下鴨神社
平安時代以前から存在する京都で最も古い神社の一つで、平成6年(1994)に世界文化遺産に登録された。
上賀茂神社の祭神である賀茂別雷神の母の玉依媛命と玉依媛命の父の賀茂建角身命を祀ることから、正しくは賀茂御祖神社といい、上賀茂神社とともに賀茂社と称される。
平安遷都(794)後は王城の守護神として朝廷をはじめ公家や武家の崇敬を集め、弘仁元年(810)以降、約400年にわたり、斎院(斎王の御所)が置かれ、皇女が斎王として賀茂社に奉仕した。
また、約12万4千平方メートル(東京ドームの約3倍)に及ぶ境内の自然林は「糺(ただす)の森」として市民に親しまれ、平安京以前の原生林を残す貴重な森林として国の史跡に指定されている。
毎年5月15日には、京都三大祭の一つである葵祭(あおいまつり)が行われ、御所から当神社を経て上賀茂神社まで向かう行列が、都大路に王朝絵巻を繰り広げる。
京都御所 神護寺 鞍馬寺
京都御所
京都市街のほぼ中央に位置し、東西約700m、南北約1,300m、広さ約91万2千u(約27万6千坪)の、緑豊かな広大な敷地を有する京都御苑内の、東西249m、南北451mの築地塀で囲まれた広さ約11万2,300uの範囲を京都御所といっている。
御所は、平安遷都(794年)から、明治初年(1869年)の東京遷都までの1千年余りにわたり内裏、すなわち皇居として尊ばれ、その後も御行幸や御即位に重要な役割を担っている。
高雄山 神護寺
もと高雄山寺といい、天応元年(781)愛宕五坊の一つとして建立されたといわれ、また和気清麿が河内国(大阪府)に建てた神願寺を天長元年(824)この地に移し、空海(弘法大師)が住持となって、神護国祚真言寺と改称した。
その後寺運は次第に衰え、寿永3年(1184)文覚上人の中興もあったが、応仁の乱で再び衰え、豊臣・徳川氏などによって暫次修営され、現在に至っている。
鞍馬寺
奈良、唐招提寺の開山鑑真和上の高弟、鑑禎上人が、宝元年(770)、鞍を負った白馬の導きで当山に至り、毘沙門天を感得して草庵を結んだのが始まりである。
延暦15年(796)には藤原伊勢人が王城鎮護の道場として伽藍を造営し、爾来衆庶の信仰を集めてきた。
現在は鞍馬弘教の総本山であり、宇宙の大霊・尊天を本尊とする信仰の浄域である。
山の精霊である天狗が住む山としても有名で、貴船へと続く参道には、豊かな大自然の中に、牛若丸(源義経)ゆかりの「息次ぎの水」や「背比べ石」、枕草子に記された「九十九折(つづらお)り」などの名所古跡が散在し、多くの文学作品にも登場する。
浄教寺 長講堂 西八条第跡
浄教寺(浄土宗)
平清盛の長男、平重盛ゆかりの寺。もとは重盛が極楽往生を願って小松谷に48間の灯篭堂を建て、48体の阿弥陀仏を安置し、48個の灯篭を掲げたこと始まる。
平家没落後廃絶され、その後東洞院高辻下ルに再興、豊臣秀吉の時代、天正19年に現在地に移された。
長講堂
平安時代末期の寿永2年(1183)に、後白河法皇(1127〜1191)が晩年を過ごした院御所「六条殿」内に建立した持仏堂が当寺の起こりである。
後白河法皇は、譲位して上皇となってからも30余年にわたって院政を行い、嘉応元年(1169)には仏門に入り法皇となった。
長講堂は、正式には「法華長講弥陀三昧堂」といい、法華経を長期間講じ、阿弥陀仏を念じて精神集中の境地に入る道場という意味がある。
西八条第跡
西八条第は八条亭とも呼ばれ、平安時代後期、平清盛が平安京の八条壬生に構えた六町を有する広大な邸宅で、仁安元年(1166)頃に造営されたとする。
白拍子妓王・妓女や仏御前の物語もこの邸宅での話しである。
清盛は仁安2年(1167)に太政大臣の位を退いてから摂津福原に居を移したが、妻の二位尼時子はここに住み、邸内に光明心院を営んでおり、また、清盛も入洛の折はこの邸宅を使用している。
清盛は、安元3年(1177)6月の鹿ケ谷山荘事件の後、この邸宅でその処分を決めている。
羅城門跡 若一神社
羅城門
平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた、都の表玄関にあたる大門で、この門を境に京の内外を分けた。
弘仁7年(816)に大風により倒壊し、その後に再建されたが、天元3年(980)の暴風雨で再び倒壊した後は再建されることがなかった。
若一神社
光仁天皇の御代、宝亀3年(772年)に、唐から来て天王寺に住んでいた威光上人が熊野詣をされた。
迷い苦しむ人々を救おうと御分霊若一王子の御神体を笈に負いこの地に来て森の中の古堂で一夜を明かした。その時の御神意に従って若一王子の御神体を堂中に安置し奉斎鎮座された。
その後、異変によってその御神体は土中に埋れてしまっていた。
清盛公が六波羅に在住されていた頃、この地は「浅水の森」と呼ばれ風光明媚な所であったため承安年中にこの地に西八条御所と呼ばれる別邸を造営した。
仁安元年(1166年)8月、清盛公が熊野詣でをされた時、「土中に埋れた御神体を掘り出して奉祭するように」とのお告げがあった。
清盛公が帰京後邸内を探した所、東方の築山から夜行を放つところがあった。清盛公が喜んで自ら三尺ほど掘ると土中から若一王子の御神体が現れた。
社を造りお祀りして開運出世を祈願したところ、翌年の仁安2年(1167年)太政大臣に任じられた。その故に、この若一神社は開運出世の神様と尊崇されるようになった。

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