旅 瀬戸内(たびせと)

平家物語(源平)ゆかりの地を歩く旅
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世界遺産の島宮島    音戸の瀬戸    平家物語と京都  
平家物語(源平)ゆかりの地を歩く旅
瀬戸内海とその周辺地域には、古くからの歴史が刻まれているが、中でも平家物語に表われる源氏と平家にまつわる歴史は数が多い。
瀬戸内の海賊を退治、統一して力をつけた平家は、その水軍力と航海技術を駆使して、厳島神社や音戸の瀬戸、そして福原など瀬戸内でさまざまの土木建築工事を行い、文化の花を開かせるとともに、宋との交易で富と権力を高めていった。
そして、その瀬戸内海に源氏によって追い詰められ、戦い、滅亡していったのである。
また、瀬戸内は、平家が権力の頂点に昇りつめるまでに、権力闘争の中で敗北していった人達の流刑者を受け入れその歴史を伝えてきた地でもある。
瀬戸内をはじめ平家物語ゆかりの各地を訪問していく中でこのような源平の歴史も紐解いていきたい。
 
平家物語略年表 平清盛年表 皇室関係略系図 桓武平氏略系図 清和源氏略系図 藤原氏(北家)略系図 地図からたどる「平家物語」ゆかりの地  
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  関東脱出プロジェクト
人口や権限の東京集中とその弊害が叫ばれ始めてすでに長い年月が経過しましたが一向に改まりません!
新宿駅とその周辺や東京駅、通勤電車等の混雑も慣れてくるとそれほど気にならないかも知れませんが、私達地方の者が上京するとその異常さには驚かされます。
東日本大震災以来、今後予想される大地震や津波について様々な情報が飛び交っています。
この異常な過密都市で、大震災が起こった時、どんな事が起きるのでしょうか?
そうした中、今日本に於いて安全で暮らしやすい街について解説した本が「関東脱出プロジェクト」より発行されました。
それによると
1.岡山市 岡山市をパノラマで見ると 2.奈良市 3.那覇市 4.札幌市 5.高松市
一度関東脱出を考えてみませんか?
      
厳島神社と新・平家物語
厳島神社は、今から1370余年前推古天皇の即位元年に社殿が創建され、その後、平清盛によって現存の規模ができあがり平家の氏神として平家一族によって深く信仰されるとともに、後白河法皇や高倉上皇の御幸も行われてる。
平家納経を始めとするたくさんの宝物と共に、国宝、重要文化財に指定されるものがきわめて多い。
また、平家が屋島の戦いで源氏に破れ長門 壇ノ浦へ落ち延びて行く途中では、二位の尼の願いにより、ここ厳島神社で戦勝祈願を行っている。
音戸の瀬戸(おんどのせと)
今から八百数十年前、陸続きだった、今の呉市警固屋と倉橋島を、厳島神社への参詣に便利になように平清盛賀一日で切り開いたと伝えられている。
平家物語と京都
朝廷から武士の時代へと変わっていく平安末期、皇室との強い縁のある平家を中心に描いた平家物語の本拠地は何といっても京都。
平家物語の主人公、平清盛が平治の乱からわずか8年で太政大臣という最高の位につくことができたのも、清盛が白河院の御落胤であったからであるといわれている。
京都の東山山麓から鴨川にかけての地域は、平家の館が建ち並んだ六波羅白河院跡をはじめとする皇族・貴族の別荘地であった白河、平家から源氏の世に代わる30余年という長期の間院政を行った後白河院の御所であった法住寺から長講堂、重盛の小松邸跡であった小松谷 小林寺、高倉天皇ゆかりの静閑寺、平家の人々が深く信じた浄土思想、法然上人ゆかりの寺々はこの地域に集中している。
他にも、京都御所周辺、祇王寺のある嵯峨野、建礼門院閑居の寺「寂光院」のある大原の里、源義経の修行の地、鞍馬など枚挙にいとまがない。
 
       
  源平屋島合戦(屋島壇ノ浦の戦い)古戦場    白峰寺   大山神社  
源平屋島合戦
源氏の軍勢が海から攻めてくるものと思っていた平氏は、対岸の庵治の山陰(船隠し)に軍船五百隻を待機させ、挟み撃ちにする計画を立てていた。
ところが、源義経の源氏軍は、阿波の勝浦海岸に上陸、疾風の如き勢いで、陸路屋島まで進軍し、屋島の内裏へ火を放ち平家を海に追い立てた。
この源平屋島合戦の中で、義経弓流し那須与一 扇の的、祈り岩・駒立岩、舟隠し、安徳天皇社佐藤継信の碑菊王丸の墓洲崎寺などさまざまの物語や絵巻、史跡が残されている。
白峰寺
皇位をめぐって後白河天皇と争った崇徳上皇は、保元の乱(1156)に敗れ讃岐に流され9年後この地で崩御された。
大山祇神社
大山祇神社は、日本民族の祖神としてまた海上安全の守護神として各時代を通して深く崇敬されてきた、
そのため各時代の美術工芸品、中でも刀剣・甲冑を主体とする武具類は数多く治められていおり、その中には源義経や源頼朝、木曽義仲の奉納した宝物もある。

 
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  須磨離宮公園    須磨寺   源平合戦藤戸古戦場   
須磨寺
須磨寺は、平敦盛と熊谷直実の物語で良く知られた寺。
「源平の庭」には、海上に馬を乗り入れ沖へ逃れようとする平ノ敦盛とそれを呼び返す熊谷直実の騎馬像が・・・。
寿永3年(1184年)2月7日、一の谷合戦の際、源氏の武者 熊谷直実は、海上に馬を乗り入れ沖へ逃れようとする無官太夫 平ノ敦盛を呼び返して、須磨の浜辺に組み討ち、その首をはねた。
平家物語が伝える最も美しく、最も哀しい、有名な史話である。敦盛は時に年16、笛の名手であった。その遺愛の青葉の笛は、今も当寺に伝えられている。
境内には、その他にも敦盛首洗い池、義経腰掛けの松、敦盛公首塚などが。
源平合戦藤戸古戦場
寿永3年(1184)旧暦12月(東鑑ーあずまかがみ) 源頼朝の命により、平氏討伐の為西下した範頼の率いる源氏は、日間山一帯に布陣し、海を隔てて約二千米対岸の藤戸のあたりに陣を構えた平行盛を主将とする平氏と対峙したが源氏には水軍が無かったので渡海出来ず平氏の舟から扇でさし招く無礼な挑戦に対してもただ切歯扼腕悔しがるだけであった。
時に源氏の武将、佐々木盛綱かねてより「先陣の功名」を念かけており、苦心の末一人の浦男より対岸に通ずる浅瀬の在りかを聞き出し、夜半、男を伴って厳寒の海に入って瀬踏みをし、目印に笹を立てさせたが他言を封じるため、その場で浦男を殺し海に流した。翌朝盛綱は、家の子・郎黨を従え乗出し岩の処より海へ馬を乗り入れ、驚く味方将兵の騒ぎを尻目に、大将範頼の制止にも耳を藉さず、目印の笹をたよりにまっしぐらに海峡を乗り渡り、先陣庵のあたりに上陸し大音声に先陣の名乗りを上げるや敵陣目指して突入し、源氏大勝の端を開いた。盛綱は此の戦功により、頼朝より絶賛の感状と児島を領地として賜った。海を馬で渡るなど絶対不可能と信じられていた時代に之を敢行した盛綱の壮挙は一世を驚嘆させ永く後世に名声を伝えられる事となった。
(現地案内板より)

 
   
 源平合戦水島古戦場 妹尾太郎兼康公墓  藤原成親遺跡   
源平合戦水島古戦場
水島の門(と)を隔てて相向う柏島には平家方、乙島には、木曽義仲の客将率いる源氏方が陣取り、時将に寿永2年(1183)閏10月1日壮烈な海上戦となって、源氏方が惨敗海の藻屑と化した。
空には日蝕が現われ西風の強い日であった。
はじめてのこの勝ちいくさが平家を上洛の望みに誘い、その後の一ノ谷、屋島、壇の浦と一路平家滅亡への転機となったこの合戦であった。
藤原成親遺跡
大納言藤原成親は、京都鹿ヶ谷において僧俊寛らと平家打倒を企てた(鹿ヶ谷の陰謀)が発覚し、清盛により斬罪にされるところを妹婿の平重盛の嘆願により死罪を免れ、治承元(1177)年下津井に流され、さらに吉備の中山、有木の別所に移されてこの地で非業の最後を遂げた。
 
   
生田神社 福原京と源平一の谷合戦古戦場  日吉大社  
生田の森
一の谷に安徳天皇の内裏と本陣を構えた平家は、鉢伏山山頂へ西門を、当事の生田川沿いの生田の森に東門を構え、生田川を挟んで源氏軍と対峙した。大将は平知盛。
生田神社境内には、謡曲「箙」で知られている梶原源太郎景季ゆかりの「箙(えびら)の梅」、景季が水を汲んだ時箙の梅が映ったといわれる梶原の井敦盛萩など多くの史跡が散在している。
福原京と源平一の谷合戦古戦場
福原京と大輪田の泊

平安時代末期、平家一門が日宋貿易の港である大輪田泊を見晴らす福原の地を領有し、ここに多くの邸宅を構えた。
治承4(1180)年、政権の強化を図った平清盛が孫の安徳天皇を奉じて都造りをはかったのが「福原遷都」である。しかし都造りは中途で頓挫、半年で平安京に遷都したため実態としての都は完成しなかった。
「平家物語」などには、平清盛が福原の地にいくつかの邸宅を持っていたことを伝えている。そのひとつが「雪見御所」で、その名を伝える雪見御所町に所在した可能性が高い。
源平一の谷合戦
木曽義仲に京の都を追われ、安徳天皇を奉じて九州、大宰府へ逃げ延びていた平家は、体制を立て直して屋島に本拠地を構えると共に須磨、一の谷に陣を築き都の奪還を図っていた。
寿永3年2月7日、後白河法皇から平家追討の命を受けた源義経は、鵯越(ひよどりごえ)の坂落(さかおとし)で良く知られている一の谷の合戦の火蓋を切るのである。
この美しい須磨の地には、謡曲「敦盛」で知られる須磨寺、安徳天皇内裏跡伝説地、戦いの浜、熊谷次郎直実によって首を討たれた平敦盛の冥福を祈って建立されたとする敦盛塚などがあり、秘めた歴史を今に伝えている。
日吉大社と平家物語
日吉大社は、比叡山延暦寺が建立され天台宗が開かれると、その守護神として仏教とも深い関係となり山王大権現とか日吉山王とか呼ばれ都の鎮護の神として高い崇拝を受けた。
そして、平安末期の平家隆盛の頃には、延暦寺の僧兵が法皇ですらひれふさねばならないと言われる日吉大社の神輿を担いで都の朝廷に強訴するまでになった。
若き清盛はこの神輿に矢を射掛け僧兵たちの度肝を抜いたといわれている。
 
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平通盛の局一族の落ちのび先 広島 平家谷 横倉地区 平家落人伝説で知られる 四国祖谷地区 竹生島  
広島 平家谷 横倉地区
平通盛(たいらのみちもり)−平教盛の長男、平清盛の甥(おい)ーが屋島の合戦(1185)に敗れた後、局や一族が落ちのびた里と伝えられる。
この地には通盛神社赤幡(あかはた)神社・貴船(きぶね)神社・湯舟神社などその謂れを偲ぶことができる史跡が残されている。
四国祖谷地区
長門壇ノ浦で二位の尼時子と共に入水したと伝えられる安徳天皇が源平屋島合戦の際、平国盛とともに祖谷に逃げ延びたと伝わっている。
とすれば二位の尼時子と共に入水したのは誰だったのであろう。

竹生島と平家物語
新・平家物語の中で竹生島は、何回か描かれている。
大将軍小松維盛ひきいる平家の大軍が木曽義仲追討のため北陸に向かって行く途中平経正が竹生島に立ち寄り、丁度ここの禰宜である叔父の所へ来ていた阿部麻鳥に、清盛臨終の際に診てもらった礼として仙童の琵琶を弾いて聞かせている。
また、源義経が頼朝に追われ奥州へ落ち延びて行く際にも、堅田の湖族の支援でここ竹生島にかくまわれていたこともある。
 
 
室津 倉橋島 桂浜(本浦) 熊野参詣道ー熊野古道  
平家物語と室津
室津は、「此の泊 風を防ぐこと 室の如し」 (播磨国風土記)と記されているように古来より美しい瀬戸内の風光に恵まれた天然の良港。
1180(治承4年)には平清盛高倉上皇を擁し、厳島神社へ行く途中室津へ立ち寄りまた1183年(寿永2年)には平氏が源行家を七曲で迎え撃ち大打撃を与えている。
倉橋島の本浦沖と新・平家物語
倉橋島の本浦沖は、新・平家物語の中で、屋島から長門 壇ノ浦へ落ち延びて行く平家の船団が二位の尼の指図で一時停船し、平家の氏神 厳島神社へ戦勝祈願の参詣をするか否かの評定を行った所とされている。
この本浦では、平家の船大工や船役人がたくさんいたのであるが、屋島から長門 壇ノ浦へ落ち延びて行くこの頃にはことごとく焼き払われていたと新・平家物語には書かれている。
熊野参詣道ー熊野古道
熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社は、熊野三山と呼ばれ、平安時代になると王侯貴族は、秘境熊野に現世浄土を求めてたびたび参詣し、「蟻の熊野詣」と呼ばれる程の盛況を見せた。
平家物語の中でも、平清盛重盛をはじめ、後白河院、後鳥羽院など多くの人々が参詣している。
現在、熊野古道と呼ばれているのは、人気の高い中辺路をはじめ大辺路、小辺路、伊勢路などがある。
 
 
藤原氏の氏寺・氏神そして東大寺炎上の奈良 多田神社 金刀比羅宮(こんぴらさん)  
藤原氏の氏寺・氏神そして東大寺炎上の奈良
平家物語の時代、かっての都、平城京は南都と呼ばれ、藤原氏の氏寺興福寺や鎮護国家の寺、東大寺の僧兵たちは、春日神木を振りかざして強訴を繰り返していた。
それは、以仁王源頼政に味方した、奈良僧兵団討伐の平家の大将重衡による、1180年年末の奈良炎上へとつながる。
多田神社
源満仲が天禄元(970)年に多田院を建立したのが始まりで、現在の建物は徳川第4代将軍徳川家綱によって再興されたものである。
御祭神は、第56代清和天皇の御曽孫源満仲公をはじめ頼光、頼信、頼義、義家の五公をお祀りしている。⇒清和源氏略系図
金刀比羅宮
「さぬきのこんぴらさん」と親しみを込めて呼ばれている。
海の守護神として全国的に知られており、奥社(おくのやしろ)まで1,368段、本宮(海抜251m)まで785段の石段からなり、祭神は大物主神で崇徳天皇を合祀している。
本宮からの讃岐平野や瀬戸大橋の眺めはすばらしい。
江戸時代以降、参勤交代により、街道や宿場が整備されてくると神社、仏閣に詣でる旅が盛んとなり、「安芸の宮島」や「さぬきのこんぴらさん」、児島の「瑜伽山(ゆがさん)などの門前町が大いに栄えた。
 
 
熱田神宮とその周辺 源頼朝配所の地 蛭が小島とその周辺 鎌倉幕府の地鎌倉  
  熱田神宮とその周辺
源義朝は、熱田神宮の大宮司、藤原季範(のりすえ)の娘(由良御前)と結婚している。
熱田神宮の道路を隔てたすぐ西には源頼朝の出生地とされる誓願寺が、また、500m程西には白鳥御陵がある。
その他にも、熱田神宮周辺には、断夫山古墳、景清社、藤原師長謫居跡、亀井水、七里の渡し跡など史跡が多い。

源頼朝配流の地 蛭ヶ小島とその周辺
永暦元年(1160)14才でこの地に流された頼朝は、治承4年(1180)34才で旗揚げ、やがては鎌倉幕府創設を成し遂げることとなる。
蛭ヶ小島の近くには、 山木判官平兼隆館跡や平兼隆の菩提寺、香山寺がある。 
源頼朝による幕府創建の地鎌倉
源頼朝は、治承4年(1180)、富士川の合戦の後、鎌倉に館となる大蔵御所を置き、幕府の統治機構の原型となる侍所を設置した。
そして元暦2年(1185)に、長門壇ノ浦で平家を滅ぼすと、朝廷は、頼朝に対し、東国に与えられた諸国への守護・地頭の設置・任免を許可、建久3年(1192)には征夷大将軍の宣下をした。
こうして、平清盛に始まった武家政権は、頼朝の鎌倉幕府により成立した。鎌倉幕府は、元弘3年(1333)北条氏が新田義貞らの軍により滅ぼされるまで続いた。
 
 
  書写山円教寺    通仙園   源平壇ノ浦合戦ー関門海峡ー   
  書写山と弁慶
書写山には、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、七歳から十年間過したという伝説があり、(1)奥の院には「弁慶の学問所」と呼ばれる「護法堂拝殿」が、(2)食堂横には、弁慶が、昼寝をしている間に信濃坊戒円にされた顔のいたずら書きを映した「弁慶鏡井戸」が、また、(3)摩尼殿前には、弁慶がお手玉にしたといわれる「弁慶のお手玉石」があり、(4)食堂の二階には、「弁慶の勉強机」が展示されている。
また、円教寺は、後白河法皇、平清盛や源頼朝など「平家物語」ゆかりの人々にも信仰されている。
「円教寺縁起」によれば、後白河法皇は7日間御参籠され、平清盛や源頼朝は寺領を寄付し講堂を建立したとの事である。
 

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