旅 瀬戸内(たびせと)

平安宮(へいあんきゅう)遺祉
     
    千本丸太町   
     
  大極殿遺祉碑と碑のある公園      平安宮朝堂院跡  
平安宮(へいあんきゅう)遺祉
平安宮の大極殿は、桓武天皇の平安遷都(794年)の翌年(795年)には完成している。
その位置は、現在の御所よりは西の千本丸太町交差点の北側付近であった。
その後、数度焼失と再建が繰り返されたが、安元3年(1177)の大火で全焼しその後この地に再建されることはなかった。
従って「平家物語」の時代も、前半の鹿ヶ谷事件の頃までは、この位置で主要な国事が行われていたことになる。
  大極殿跡
平安宮で最も重要な施設である朝堂院の正殿「大極殿」は、平安京遷都(せんと)の翌年、延暦14年(795)には完成。
天皇の即位(そくい)式のほか、正月に行われる朝賀(ちょうが)や御斎会(ごさいえ)、外国使節の謁見(えっけん)など、国家の重要な行事がここで行われた。
弘仁(こうにん)6年(815)には、地方から19,800人余りの役夫が動員されて大掛かりな修理が行われ、このとき初めて屋根に緑釉(りょくゆう)瓦が採用されたものと考えられる。
その後、貞観18年(876)4月16日夜半の火災で焼失、元慶3年(879)10月に再建(第2次)されたが、康平元年(1058)2月26日に再び火災が発生し、応天門と左方の楼(ろう)を残して焼失。
さらに延久4年(1072)4月15日に再建(第3次)された大極殿も、安元2年(1177)4月28日に焼失し、以後は再建されなかった。
創建当初の大極殿は、東西11間、南北4間の寄棟造りの建物とみられ、基壇(きだん)の大きさは推定東西59m、南北24m、朱塗りの柱や組物、屋根の大棟両端には鴟尾(しび)をのせ、軒先や棟には緑鮮やかな緑釉瓦で縁取りされた豪壮華麗な建物であった。
大極殿の位置は、最近まで千本丸田町交差点の北側付近と推定されていたが、近年の発掘調査で、朝堂院内のいくつかの建物跡が見つかり、さらに建都から1200年目にあたる1994年には、初めて大極殿の基壇跡が地表下0.6mで確認され、現在ではほぼその位置が明らかとなっている。
(現地案内板)
                                     平安宮跡と今の市街地との関係 平安宮跡史跡位置図 大極殿図 平安宮復元イラスト
 
     
  平安宮 内裏承明門跡     平安宮 内裏内郭回廊跡 平安宮 内裏跡  
平安宮の内裏は、下立売(しもだちうり)通付近にあった。この付近では、承明門跡や内裏内郭回廊跡が発掘されている。
平安宮 一本御書所跡 平安宮 一本御書所跡付近の町並み 平安宮 豊楽院跡
平安宮 豊楽殿跡 出世稲荷 平安京大内裏朱雀門址
天皇の饗宴を行うことを目的に造営された豊楽殿跡は、千本丸太町の少し南西付近で発掘された。
千本通の出世稲荷の少し南には、朱雀門跡の碑が建てられている。
神泉苑 三条東殿遺祉 烏丸御池遺跡・平安京跡
神泉苑
二条城の南に位置する庭園で、清水が湧き出していたことからこの名がついたと言われている。平安宮、大内裏の前に設けられ天皇や貴族の遊宴の地とされていた。
白拍子であった静御前が、ここの舞台で雨乞いの舞を舞いそれを義経が見初めたとされている。
三条東殿遺祉
三条烏丸交差点の東北、新風館(京都電電ビル西館)の敷地であり、三条東殿遺祉碑は、新風館の建物の北西隅にある。
1125年白河法皇が院の御所を造営、その後後白河法皇の院の御所となった。
平治元年(1159)12月9日、源義朝がここ、三条東殿を襲撃、後白河法皇を連れ去って幽閉、平治の乱が勃発した。

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