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  旧萩藩校明倫館 萩市立図書館    
  旧萩藩校明倫館ー明倫館碑ー(国指定史跡)
昭和4年12月17日指定
萩市大字江向
明倫館は、5代藩主毛利吉元の代の享保4(1719)年に、萩城三の丸追廻し筋(おいまわしすじ)に開校した。敷地は940坪であった。
それから、130年後、13代藩主毛利敬親(たかちか)の代の嘉永2(1849)年に、萩城下中央の江向の地に敷地15,184坪、建物総坪数11,328坪、練兵場3,020坪の広大な規模の新明倫館が完成して移ったものである。
明倫館碑
明倫館碑は2基あり、向かって左側は明倫館創建21年目の元文6(1741)年6代目藩主毛利宗広が創立の由来を伝えるために建てたものである。
玄武岩の石碑には2代学頭山県周南撰文、3代目学頭津田東陽書による「明倫館記」が刻まれている。
右側は嘉永2(1849)年13代藩主毛利敬親が新明倫館の開校を記念して10代学頭山県太華(やまがたたいか)に「重建明倫館記」を撰ばせて建てたものである。
   萩市
(現地案内板)
萩市立図書館
TEL0838-25-6355
〒758-0041 萩市江向552−2
開館時間:9:00〜21:00
休館日:原則年中無休
但し12月28日〜1月4日は9:00〜17:00
蔵書点検・館内整備等のため年3日間程度休館
   
     
  前原一誠旧宅 藍場川    
  前原一誠(いっせい)旧宅
萩藩の大組佐世彦七(させひこしち)の長男として天保5(1834)年に生れ、安政4年24歳の時に松下村塾へ入門した。
戊辰戦争で北越官軍参謀を務め、越後府判事を経て参議に進み、ついで明治2(1869)年に大村益次郎のあとを受けて兵部大輔(ひょうぶだゆう)となった。
越後府判事時代には信濃川の治水工事をはじめ、困窮農民の年貢を半減するなど民政に手腕を発揮したが、新政府の木戸孝允、大久保利通らとは意見が合わず、明治3(1870)年に辞職し帰郷した。
全国的に維新の改革により士族たちの不満が渦巻いていたが、明治維新の主流派雄藩であった萩藩でも士族の不満は高まっていた。
明治9(1876)年の秩禄(ちつろく)廃止により士族の不満は爆発し、同年10月熊本の敬神党(けいしんとう)、福岡の秋月党(あきづきとう)が相次いで挙兵した。
これに呼応して明倫館を本営として挙兵するが、事破れて刑死した。
旧宅は当時のままで現存され、墓は近くの弘法寺にある。
大正5(1916)年従四位を贈られた。
(現地案内板)
  藍場川
萩市指定歴史的景観保存地区
この川は川島から市内を流れて平安古に通じている。
当初は田畑へ水を引く小溝であったが、延享元(1744)年に開削して阿武川と新堀を結んだものである。
農業用水路のほか、川舟を通して川上から薪炭などを運ぶのに用いられた。
今も川舟の向きを変えた舟廻しや、舟が通り易いように両岸より高く持ち上げられた橋がいくつも見られ、昔日の面影を留めている。
川沿いには板囲いの洗い場を造ったり、川水を庭の池に引き入れた古い家も多い。
昔は大溝と言ったが、幕末、江向の川端に藍場ができたためいつのまにか藍場川と呼ばれるようになった。
(現地案内板)
   
     
   旧湯川家屋敷    桂太郎旧宅    
  旧湯川家屋敷(萩市指定史跡)
松本川から樋門を開いて取水し、萩城下新堀川まで水を通す。
この水路を昔は大溝といったが、幕末に江向の川端に藍場ができたため、いつの間にか藍場川と呼ばれるようになった。
この水路は城下町への物資の供給路、農業用水として重要な役割を果してきた。
川沿いに、板囲いの洗い場を造ったり川水を庭の池に引き入れた古い家も多い。
中でも樋ノ口の湯川家は、萩の古い屋敷の特色を随所に残しており、付近の景観の重要な構成要素の一つをなしている。
建築年代は、家人の話では安政年間といわれている。
   萩市教育委員会
(現地案内板)
桂太郎旧宅(萩市指定史跡)
平成10年1月27日指定
萩市大字川島
桂太郎は弘化4(1817)年に萩市平安古(ひやこ)に生れ、3歳の時にこの川島に移り住んだ。
現存する旧宅は、少年時代を過ごした地に、明治12(1909)年に新築したものである。
主屋(しゅおく)−床面積69.5uーは派手さを抑え、規模も比較的小さいもので、藍場川沿いの生活を穏やかに楽しむために作られている。
藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園は、建物にやや遅れて造作されたもので、懸石(かけいし)と呼ばれる萩地方独特の石組等に特徴がある。
桂は、藩校明倫館に学び、戊辰戦争では参謀として活躍した。
明治維新後は陸軍に入り、明治31(1898)年には陸軍大臣となった。
明治33(1900)年には現在の拓殖大学を開創し、国際社会で活躍できる人材の育成にも力を注いだ。
明治34(1901)年以来、3度首相を務め、国事多難な時期に手腕を発揮した。
大正2(1913)年に67歳で没した。公爵。
  萩市
(現地案内板)
   
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  指月山善福寺 山県有朋誕生地      
  指月山善福寺
TEL0838-25-3139
萩市川島197
本寺は永享年中(1429〜1441)足利六代将軍義教時代に創建、開山翔天源瑠和尚、石州安国寺世代隠居して萩堀内指月山の麓に草庵を結ぶ。
天文年間(1532〜1554)桂本元鹵和尚時に大内義隆公の寄進状あり。

「長門国阿武郡萩浦内壹町地元鹵桂本僧開発し事所令寄附善福寺也者草々寺務之状如件
天文十九年十二月十八日
大宰大貮 書判
             郷土博物館保管
堀内の地を善福寺へ寄進させるので、早く寺をはじめなさいという意味でこの文書において「萩」の地名がはじめて現れたのはこの頃だそうです。
慶長九(1604)年毛利輝元公築城の際現今の地(川島)に移転し、今日に至る。
(現地案内板)
山県有朋
明治・大正期の軍人・政治家・公爵。
川島で出生。松下村塾に学び、奇兵隊の軍監となり。
高杉晋作挙兵による内訌戦等に活躍、戊辰戦争では官軍の参謀として転戦。
明治以降、陸軍卿・参議・陸軍大将・元帥へと進み、日本陸軍の中心的存在として長州陸軍伐を形成、政治家としては内務大臣となり、のち、二次にわたり内閣を組織し、元老となる。
大正十一(1922)年没。享年八十五。
        萩市
(現地案内板)
     
       
  渡辺蒿蔵旧宅 井上剣花坊誕生地      
  渡辺蒿蔵旧宅
渡辺蒿蔵は、松下村塾に学び、奇兵隊に参加した後にアメリカとイギリスで造船技術を習得した。
帰国後は長崎に赴任し、当時、東洋一とうたわれた立神ドックを完成させ、長崎造船局の初代局長に就任した。
萩に帰郷後は、お茶を嗜むとともに、松下村塾の保存事業に地元代表として尽力した。
この旧宅は、帰郷後の居宅として、明治中期に建てられたもので、広大な敷地の中央の主屋には、路地風庭園に面した続き間座敷と、橋本川河畔を望む二階座敷が設けられ、東隣には数寄屋造りの茶室、西隣には二階建ての重厚な土蔵が配されている。
また、江向八丁筋に面した長屋門は、江戸時代の武家屋敷の遺構とみられ、当旧宅の入口として使われていた。
(現地案内板参考)
  井上剣花坊
井上剣花坊は明治3(1870)年、藩士井上吉兵衛の長男として、旧萩城下江向に生れた。本名は幸一。
苦学して木間の小学校教員となり、地元の新聞記者を経て、明治33(1900)年に上京、雑誌「明義」の記者となって文芸欄を担当した。
明治36(1903)年日本新聞社に入社し、新聞「日本」に剣花坊の名で「新題柳樽」欄を設け、新聞記者をつとめるかたわら、川柳のの改革復興に尽力した。
同38年には柳樽寺川柳会を組織し、機関誌「川柳」を創刊。
大正期にには柳樽寺剣花坊の名で、新川柳界の総帥と仰がれた。
門下は全国各地に広がり、なかには雉子郎の川柳名をもつ作家吉川英治もいた。
昭和9(1934)年没、享年65歳。
また、妻信子は萩市土原に生まれ、後に川柳を学び、公私ともに剣花坊と歩んだ。89歳で死去。
夫妻の墓は、鎌倉建長寺にある。
    
萩市(現地案内板
     
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  久坂玄随誕生地 第26代総理大臣 旧田中別邸      
  久坂玄随
萩市平安古
幕末の志士。この地に出生。
明倫館に入り、のち医学館で学ぶが、医業を好まず吉田松陰に学んで高杉晋作と共に松下村塾の双璧と称された。
長井雅楽(ながいうた)の航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)に反対し、藩論を尊攘倒幕に一変させ、攘夷督促勅使東下の奏請(そうじょう)に奔走、英国公使館の焼討に下関の外国船砲撃に参加した。
元治元(1864)年蛤御門の変に敗れ、鷹司邸内で自刃した。享年25歳。
   萩市
(現地案内板)
第26代総理大臣 旧田中別邸
旧田中別邸の主要建物の骨格は、萩に夏みかん栽培を広めた小幡高政(おばたたかまさ)が完成させ、大正後半からは第26代の総理大臣を務めた田中義一の所有となり、主屋の増改築が行なわれた。
別邸内には田中義一が陸軍大将時代に身につけた正装(大将服)など展示物が多数あり、五松閣と呼ばれる建物から観る河畔の景色は絶景である。
また、小幡高政ゆかりの夏みかんなど柑橘類380本が植えてある「かんきつ園」は無料で散策できる。
主な展示物
旧総理官邸の屋上にあったミミズク(レプリカ)
田中義一の大将服、田中義一鍾馗(しょうき)図 平福百穂画
田中義一肖像 犬養毅賛 田中義一愛用の眼鏡、印章、硯など
昭和天皇の下賜品(鏡箱、香箱、文箱など)
入館料:100円
開館時間:9:00〜17:00
(現地案内板)
     
       
   道の駅「萩しーまーと」    明神池      
  道の駅「萩しーまーと」
TEL0838-24-4937
〒758-0011 萩市椿東北前小畑4160−61
萩漁港に接した道の駅。
鮮魚、水産加工品をはじめ地元産の野菜・果物などの販売をしている。
また、鮮魚を使ったメニューが充実した「浜料理がんがん」・「来萩(きはぎ)」・「維新亭」などのレストラン、食事処もある。
  明神池(天然記念物)
大正13年12月9日指定
萩市大字椿東越ヶ浜
明神池は笠山と本土との間に砂州が出来て、陸続きになったとき埋め残されたかん水湖。
大池、中ノ池、奥ノ池の三部分から成り、総面積は約100アール。
池と湖は岩の隙間を通じており、外界の干満に応じて水量が変化する。
(現地案内板)
     
         
   笠山椿群生林    笠山      
  笠山椿群生林(萩市指定天然記念物)
平成14年8月1日指定
笠山の北端、虎ヶ崎にあり、約10ヘクタールの広さに約25,000本のヤブツバキが自生している。

遊歩道の長さ1,500m 
  笠山
笠山は北長門海岸国定公園の中心部に位置し、高さ112mで、頂上には口径30m、深さ30mの小さな噴火口跡がある。
海抜60m付近までが数万年前の噴火活動でつくられた溶岩台地で、その上に、約1万年前の噴火で、つり鐘状(つりかねじょう)スコリア丘の単成火山がつくられた。
周囲には、溶岩のすき間から海水や風が出入りする池や穴ー風穴(ふうけつ)−が多く存在し、暖・寒地性の植物も多く見られ、コウライタチバナの自生地(国指定天然記念物)でもある。
笠山という名は、遠くから眺めた姿が、女性のかぶっていた市女笠(いちめがさ)に似ていることから、こう呼ばれるようになった。
(現地案内板)
     
         
   金谷天満宮   萩藩毛利家墓所ー大照院墓所ー       
  金谷天満宮
金谷天満宮は、鎌倉時代の長門守護職、佐々木四郎高綱(たかつな)が、大宰府より勧請したといわれ、享保5(1720)年藩主毛利吉元の時、現在地に再建された。
秋の祭礼は萩二大祭の一つで、大名行列、踊り車等の奉納があって賑わう。
また、ここは城下町の表玄関ともいえる大木戸のあった所。
番所には常時番人をおき、日没には治安維持のため城下への出入りはさし止められていた。
  萩藩毛利家墓所ー大照院墓所ー
国指定史跡ー昭和56年5月2日指定
萩市大字椿
大照院墓所は、萩藩初代藩主毛利秀就(ひでなり)以下2代から12代までの偶数代の7藩主と夫人および一族と秀就に殉死した7藩士の墓52基などがあり、総面積5,717.39uである。
墓の周囲には、玉垣22か所、鳥居7基、石燈籠600数基、石橋1架、参道の石畳などの石像物と墓所入口の小門1棟がある。
これらの墓は、明治以後に移されたものや一部の新墓を除いて、いずれも花崗岩製の五輪塔形である。
なかでも藩主夫妻の墓は高さ4.5mの大形である。
鳥居や多数の石燈籠は、家臣をはじめゆかりの深い人びとが寄進したものである。
     
         
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萩往還は、萩城主、毛利氏の参勤交代の御成道として慶長9年に開かれた総延長約53qの道で、山陰の萩と山陽の防府を結ぶ主要街道であった。
道の駅「萩往還」は、かっての萩城下への入口となる所、主要地方道萩秋芳線沿いに位置し、物産・農産物販売施設、レストランに加え松陰記念館が設けられている。
営業時間:9:00〜18:00
定休日:なし
見蘭牛ダイニング玄:平日11:00〜17:00
土・日・祝日11:00〜18:00
定休日:火曜日(祝日の場合は翌日)
うどん茶屋 橙々(だいだい)亭:9:00〜17:00
松陰記念館:9:00〜17:00
農産物直売所・物産館:9:00〜18:00
   
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