旅 瀬戸内(たびせと)    松本ー萩の旅ー    
   
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   松陰神社参道   明治維新胎動の地     
  松本
旧松本村にあたるところで幕末から維新にかけて活躍した志士を育てた松下村塾、吉田松陰誕生の地、吉田松陰幽囚の旧宅、松陰神社、揖取素彦旧宅跡、伊藤博文旧宅、松陰の叔父、玉木文之進旧宅、毛利家藩主の墓のある東光寺など多くの見所がある。
松陰神社参道を真直ぐ正面に進むと松下村塾、杉家旧宅などを左に見ながら松陰神社本殿へ
参道を右にそれて新道(駕籠道)と呼ばれる道を進むと吉田稔麿旧宅地跡の石碑を左に玉木文之進旧宅前を経て萩藩毛利家墓所のある東光寺総門に達する。
また、東光寺総門の手前を右に上った所には吉田松陰墓地をはじめ明治維新に活躍した萩藩士達の墓、吉田松陰誕生地などがあり、誕生地からは萩の城下町を眼下に眺めることができる。
   
     
  松下村塾 吉田松陰幽囚の旧宅    
  松下村塾(国指定史跡)
大正11年10月12日指定
萩市大字椿東
松下村塾は、木造平屋建瓦葺の小屋で、当初からあった8畳の1室と、後に塾生達との労力によって増築した10畳半の部分とからなっている。
初め吉田松陰の叔父玉木文之進(ぶんのしん)がここからほど遠くない自宅で私塾を開き、松下村塾と名付けていた。ついで外叔(がいしゅく)久保五郎左衛門がその名を承継し、子弟の教育にあたった。
安政4(1857)年11月5日、28歳の松陰がこれを継ぎ、幽囚室からここに移り講義を行った。
翌安政5(1858)年11月29日までの1年間塾生達とすごした場所である。
松下村塾では、身分にとらわれず集まった若者達を、強い志と誇りを持って行動する日本人に育てた。
         萩市
(現地案内板)
  吉田松陰幽囚(ゆうしゅう)の旧宅
国指定文化財(史跡)
大正11年10月12日指定
萩市大字椿東
この旧宅は、安政2(1855)年から数年の間、吉田松陰が幽囚された家で、東側にある3畳半の1室が幽囚室である。
松陰は、伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗し、江戸伝馬町の牢に捕らえられた。
ついで、萩に送られ野山獄に入れられたが、その後、釈放され父杉百合之助預けとなり、幽囚室に謹慎し読書と著述に専念した。
そして、近親者や近隣の子弟たちに孟子や武教全書(ぶきょうぜんしょ)を講じた。
   萩市
(現地案内板)
   
     
  松陰神社 吉田松陰歴史館      
  松陰神社
祭神 贈正四位 吉田矩方命
    号松陰 二十一回猛士 幼名 虎之助 大次郎 寅次(二)郎
祭日 春季大祭 五月二十五日
    安政六年 江戸へ護送のため萩の地に永訣の日
    生誕祭 八月四日
    文政十三年 御誕生の日
    例大祭 十月二十七日
    安政六年 江戸伝馬町の獄において旬節(刑死)された日
創祀 明治二十三年八月松下村塾改修の際、塾生等故旧の人々の協力により、実家杉家の私祀として村塾の西側に土蔵造りの小祠を建て、神霊を鎮祭し、併せて遺墨、遺品を収めたのが始めである。
創建 明治四十年九月十五日塾生伊藤博文、野村靖の名を以て公に神社創建を出願、同年十月四日県社(旧社格)として認可を得て創建されたものである。
土蔵造りの小祠を村塾の南隣に移し、祝詞殿神饌所を付し社殿とした。祝詞殿は、もと萩城内にあった萩藩主毛利家の鎮守宮崎八幡宮の拝殿を移築したものである。
松門神社 塾生 門下生五十二柱の神霊を奉斎
境内史跡 松下村塾 吉田松陰幽囚旧宅(以上国指定史跡)
       花月楼 (茶室 県指定有形文化財建造物)
施設 宝物殿至誠館 吉田松陰歴史館
               
(現地案内板)
吉田松陰歴史館
松陰神社境内にあり、吉田松陰の生涯を20シーン、70余体の蝋人形で再現している。
入館料
大人(大学生を含む)500円
中高生250円
小学生100円(但し保護者同伴入場は無料)
身体障害者・幼児は無料
団体割引20名以上2割引
 
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  薩長土連合密議之處碑 松陰神社宝物殿 至誠館      
  薩長土連合密議之處碑
文久2(1862)年1月、土佐藩士坂本龍馬が、同藩士の武市瑞山(たけいちずいざん)の書簡をもって久坂玄随(くさかげんずい)を訪ね来萩し、この場所にあった鈴木勘蔵の旅館に泊まった。たまたま薩摩藩士田上藤七(たがみとうしち)も同藩士樺山三円(かばやまさんえん)の書簡を持参して来ていた。
図らずも久坂を中心に薩長土の三藩士が一堂に会することになり、後日の薩長土連合を暗示する前兆となった。
久坂の武市瑞山宛の書簡によれば、「諸侯も公卿も恃(たの)むに足らず、草莽(そうもう)の志士を糾合し、義挙の外はとても策無し」と述べられており、松陰の「草莽崛起論(そうもうくっきろん)」に通じる内容を語り合ったと思われる。
この石碑は、明治百年記念の昭和43(1968)年に建立。
向かって右から「薩州・田上藤七、長州・久坂玄随、土州・坂本龍馬、左側に「文久二年一月、鈴木勘蔵宿之跡」とある。
  元総理大臣 岸信介 揮毫
(現地案内板)
松陰神社宝物殿 至誠館
TEL0838-24-1027
〒758-0011 山口県萩市大字椿東
吉田松陰の遺墨・遺品類などを展示。
吉田松陰の生涯や萩市内のゆかりの地を紹介する無料ゾーンと、遺墨・遺品類などを展示する有料ゾーンに分かれている。
安政の大獄により江戸で処刑されて150年を経た2009年10月27日にオープン
無料ゾーンにあるミュージアムショップでは、オリジナルグッズなどの販売もあり。
営業時間:9:00〜17:00(入館は16:30)
休日:無休
入館料:大人(大学生含む)500円
中高生250円、小学生100円
20名以上の団体2割引

 
 
       
   吉田稔麿誕生地    玉木文之進旧宅      
  吉田稔麿(よしだとしまろ)誕生の地
吉田稔麿は、天保12(1841)年、足軽の長男としてこの地に生まれた。
松下村塾に入門し、高杉晋作らとともに松下村塾の四天王といわれた。
吉田松陰の死後、尊王攘夷運動に参加し、屠勇隊(とゆうたい)ー有志の部隊ーを組織した。
元治元(1864)年、京都三条の池田屋旅館で他藩の志士と会談中、新選組に襲われ負傷し、24歳の若さで死去した。
    萩市
(現地案内板)
玉木文之進(たまきぶんのしん)旧宅
玉木文之進は、吉田松陰の叔父にあたり、杉家から出て玉木家(大組40石)を継いだ。
生まれつき学識に優れ、松陰の教育にも大きな影響を与えたほか、付近の児童を集めて教授し松下村塾と名付けた。
この塾の名称は後に久保五郎左衛門が継ぎ、安政2(1855)年には松陰が継承して、名を天下にあげるに至ったことから、この旧宅は松下村塾発祥の地といえる。
建物は木造茅葺き平屋建てで、8畳の座敷のほか4畳の畳部屋・3畳半の玄関・4畳半の板間と土間の台所があり、別に湯殿・便所がある。
     萩市
(現地案内板)
     
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  東光寺大雄宝殿 吉田松陰先生誕生之地      
  東光寺(国指定重要文化財)
昭和41年6月11日指定
護国山東光寺は元禄4(1691)3代藩主毛利吉就(よしなり)が萩出身の名僧慧極(えごく)を開山として創建した全国有数の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院である。
大雄宝殿(だいゆうほうでん)は、元禄11(1698)年4代藩主毛利吉広によって建立されたものである。
建物面積289.61uの一重裳階付きの仏殿形式で、正面一間通りは吹き放ちになっている。
屋根は入母屋造り本瓦葺で、棟中央に宝珠と両端に鯱を置いている。
堂内の土間は漆喰叩仕上げで、建物中央部に格子天井を張るなど黄檗宗建築の姿をとっているが、細部をみると一般的な唐様の手法がみられる。
(現地案内板)
吉田松陰誕生地(萩指定史跡)
ここは吉田松陰の実家、萩藩士杉家(家禄26石)の旧宅地である。
杉家の建物は「団子岩(だんごいわ)」と総称され、萩城下が一望できる風光明媚な場所である。
杉家の建物は、元は萩藩士八谷(やたがい)聴雨の山荘であり「樹々亭(じゅじゅてい)」と称していた。
松陰は、天保元(1830)年8月4日、杉百合之助の次男として生まれ、19歳までの人間としての形成期を過ごした。
両親や兄弟とともに農耕に従事し、その合間には父から漢籍(かんせき)の素読(そどく)などを受けた、思い出深い場所である。
松陰自身の書き残した書の中にも、「樹々亭」「山屋敷」「山宅」などの表現が見られる。
旧宅の間取りは玄関(3畳)、表座敷(6畳)、居間(6畳)、隠居部屋(3畳)、納戸(3畳)、台所、それに別棟の納屋と厩という、非常に狭く、簡素な造りであった。
嘉永6(1853)年に杉家が転居した後、いつしか建物などは失われ、荒れ果てていたが、大正11(1922)年の椿東村(ちんとうそん)青年会会長信国顕治(のぶくにけんじ)が、青年会員に呼びかけて整備した。
当時の間取りを示す旧宅の敷石も、後に住んでいた人の記憶によってこの時復元したものである。
整備に合わせて山県有朋(やまがたありとも)が「吉田松陰先生誕生之地」石碑の題字を揮毫している。
肩書きを「門下生」のみとしているところに、師に対する謙譲の気持ちが表れている。
なお、山県有朋は整備完了前に死去したので、これが絶筆となった。
(現地案内板)
     
       
   吉田松陰の墓    伊藤博文旧宅      
  吉田松陰の墓ならびに墓所(「萩市指定史跡)
昭和47年2月9日指定
萩市大字椿東
吉田松陰の墓は高さ0.8m、幅0.45m、礎石からの高さ1.6mの花こう岩質の自然石で作られている。
表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏 称寅次郎、安政六年己未十月二十七日 於江戸歿 享年三十歳」と刻まれている。
万延元(1860)年2月7日は松陰没後百ヶ日に当たるので、生家の杉家で百ヶ日忌を営み遺髪を埋めて作られたものである。
墓前には、門人17名が寄進して、その名を公然と刻んだ石製水盤、花立、燈籠が供えられている。
また、この墓所には杉家、吉田家、玉木家、久坂家一族と高杉晋作など松陰とゆかりの深い人々の墓が立ち並んでいる。
(現地案内板)
  伊藤博文旧宅(国指定文化財)
昭和7年3月25日指定
この建物は、最初、水井武兵衛(伊藤直右衛門)の居宅であったが、安政元(1854)年に博文の父十蔵が一家をあげて伊藤家に入家してからは、博文の居宅となった。
ここで、博文は吉田松陰の門下に入って教育を受け、志士として活躍した。
明治元(1868)年に兵庫県知事に赴任するまでここを本拠とした。
その後、明治憲法制定の任にあたってその功績を挙げ、初代内閣総理大臣に就任するなど政府の要職を歴任した。
  萩市教育委員会
(現地案内板)
     
         
   揖取素彦舊宅地    伊藤博文別邸      
  揖取素彦(かとり「もとひこ)(1829〜1912)
江戸時代の長州藩の医師の家に生まれる。松島剛蔵の弟。
藩儒小田村吉平の養子となり、最初小田村文平と名のった。
藩校明倫館と松下村塾で学ぶ。
親友吉田松陰の妹を妻とし、松陰投獄後、一時塾生の指導に当たった。
慶応3(1867)年揖取素彦と改名した。
明治維新後新政府に出仕し、明治7(1874)年群馬県知事に就任。
後、元老員議官、宮中顧問官、貴族院議員となる。
正二位勲一等男爵に叙せられる。
大正元(1912)年没。84歳。
(現地案内板) 
  伊藤博文別邸
別邸は、日本で最初の総理大臣・伊藤博文が明治40(1907)年に、東京都品川区大井に建てたものをこの地に移築し、平成13(2001)年から公開している。
別邸内には、天皇から下賜された燈籠や杉の一枚板で作られた鏡天井などがある。
また、多数の写真で伊藤博文の生涯を知ることができる。
入館料:100円
開館時間:9:00〜17:00
          
(現地案内板) 
     
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