旅 瀬戸内(たびせと)    萩城城下町    
   
  萩Top  萩城跡・堀内  萩城城下町 松本 浜崎  その他萩    
    広告   
         
  江戸屋横町    菊屋横町     
  萩城城下町(国指定史跡)
昭和42年1月10日指定
指定区域は萩城三の丸、中の総門から東に続く旧御成道である呉服町の通りと、これに直交する三筋の小路(東から江戸屋横町、伊勢屋横町、菊屋横町)及びこれらの小路の南端が直交する道路に囲まれた範囲並びにその周辺の一部。
呉服町通りには、萩藩御用達の菊屋家や幕末の商家久保田家などがあり、小路沿いには中・下級の武家屋敷で、史蹟木戸孝允旧宅、青木周弼・周蔵の旧宅(江戸屋横町)、高杉晋作旧宅跡(菊屋横町)などがある。
町筋とともに商家や武家屋敷の家並みの配置がよく保存され、城下町の景観を偲ぶことができる。萩市
(現地案内板)
   
     
  旧久保田家住宅(萩市指定有形文化財)
平成15年6月27日指定
萩市大字呉服町1−31
呉服商・酒造業を営んでいた久保田家は、主屋、門、塀、離れが旧御成道に面し、菊屋家と対峙するかのように並んでいる。
両家の主屋同士が向かい合い、立ちの低い菊屋家の主屋に対し、旧久保田家の主屋は、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」を持ち、立ちが高く、両者の対比は、それぞれの建物が建てられた時代的特色をよく表している。
幕末から明治前期にかけての建物として、意匠・構造・技術に優れ、酒造家で繁栄した往時の状況も良く伝えており、史跡萩城城下町を構成する極めて重要な建物である。
      萩市
(現地案内板)
菊屋家住宅(国指定重要文化財)
昭和49年5月21日指定
萩市大字呉服町
菊屋家は萩藩の御用達(ごようたし)を勤めた旧家である。
主屋は切妻造り、桟瓦葺きで北面している。
内部は西側に通り土間を設け、居室部は前寄り1間半を「みせ」とし、その奥は横に2または3室が3列に配されている。
全国でも最古に属する大型の町屋として極めて貴重である。
また主屋と数棟の蔵が建ち並ぶ西側の景観は「国指定史跡萩城城下町」の重要な構成要素の一つをなしている。
建築年代は主屋が17世紀中頃で、本蔵・金蔵等は18世紀から19世紀ごろと思われる。
        萩市
(現地案内板)
国指定重要文化財は、5棟(主屋・本蔵・金蔵・米蔵・釜場)
   
     
   高杉晋作誕生の地   高杉晋作立志像       
  高杉晋作誕生の地
観覧料:大人100円、中高生50円、
小学生以下無料
幕末に活躍した高杉晋作は、1839(天保10)年、萩藩士高杉小忠太の長男としてこの地に生まれた。
1857(安政4)年、久坂玄随(くさかげんずい)のすすめにより松下村塾に入門し、吉田松陰の生きた教えを受けた。
奇兵隊の創設、四国連合艦隊との講和談判、功山寺挙兵(こうざんじきょへい)などを行い、明治維新のため力を尽くしたが、維新の実現を見ることなく、1867(慶應3)年、28歳の若さで病死した。  萩市(現地案内板)      
    広告    
     
   
       
   木戸孝允旧宅    円政寺内金毘羅社社殿      
  木戸孝允旧宅(国指定史跡)
昭和7年3月25日指定
萩市呉服町二丁目
木戸孝允は、天保4(1833)年6月26日、萩藩医和田昌景(石高20石)の長男として、ここに生れた。
8歳で石高150石の桂家(末期養子のため石高90石)の養子となったが、養母死亡のため実家で成長し、江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごした。
初名は桂小五郎、33歳の時藩命により木戸貫治、翌年木戸準一郎と改めた。実名は孝允。
17歳の時には藩校明倫館で、吉田松陰に学んだ。
30歳の頃から藩の要職につく一方、京都におもむいて国事に奔走した。
慶応2(1866)年には、坂本竜馬の仲介によって薩摩の西郷隆盛らと倒幕の一大勢力となる薩長同盟を結んだ。
明治政府では特に五箇条の御誓文の草案作成に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に力を尽くした。
これらの功績により、西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれた。
明治10(1877)年5月26日、西南戦争のさなか、45歳で京都で病死。
この旧宅は、大正15(1926)年に子孫の木戸孝一氏より当時の萩町へ寄贈されたもので、桟瓦葺二階建。木戸孝允が誕生した部屋や庭園など当時の姿をよく残しており、昭和7(1932)年に国の史跡に指定された。萩市
(現地案内板)
円政寺内金毘羅社社殿
(萩市指定有形文化財)
昭和51年6月10日指定
金毘羅社の建立年は不詳であるが、入口に金毘羅社に寄進された鳥居が建っており、それに延享2(1745)年と彫られている点や天保年間(1830〜1843)に編纂された「八江萩名所図画」に現在の社そのままの姿が描かれていることなどから、少なくともそのころには建立されていたと思われる。
本殿は木造切妻造檜皮葺で桁行1.73m、梁間1.2m、主な用材はケヤキ、柱は丸柱である。
釣屋は桁行5.41m、梁間5.1mの桟瓦葺で、内部は畳敷きである。
拝殿は、一重裳階付、入母屋造本瓦葺、前面庇は檜皮葺、用材はケヤキ、柱は丸柱で、唐破風の桁行4.0m、梁間6.1mの本県独特の楼造風である。
このように社殿が地方色の濃い古い建物であることや神仏習合の形態が今でもみられる点で貴重な遺構である。
石鳥居は花崗岩製で高さ2.8m、様式は明神鳥居で笠木、島木に反りがあり、柱には転びがあり柱頭部には台輪がついている。建立年代は延享2年(1745)である。
山門は桁行2.42m、梁間1,34mの棟門形式で本瓦葺、両袖に1.35mの潜門がついている。
建築年代は不明である。
石灯籠は玄武岩製で高さ4.3m、さらに77pの4段の台座上に立ち、県下最大のものである。
竿の部分の竜の高彫はすばらしく、高さ1.14m、直径52pである。
製作年代安政5(1858)年で萩の石工五嶋吉平恒徳、同山中武祐利豊の共同制作であり、付近の町人たちが寄進したものである。
     
       
  田中義一誕生の地 旧佐伯丹下家屋敷      
  田中義一(1863〜1929)誕生の地
幕末ごろ藩主の御六尺(かごかき)田中家の三男として文久3(1863)年乙熊がここで生まれた。
乙熊は3歳のとき平安古に移り、生長して義一と名を改めた。
13歳のとき新堀小学校の授業生(代用教員)に登用され、萩の乱にも参加したが、のち陸大に進学した大正7年以降陸軍大臣、次いで対象に進み、再び陸軍大臣となる。
大正14年政友会総裁に就任、昭和2年内閣総理大臣となり外務大臣、拓務大神をも兼任した。
      萩市
(現地案内板)
  旧佐伯丹下家屋敷
(きゅうさえきたんげけやしき)
当屋敷は、幕末安政年間(1854〜1859)に描かれた「萩城下町絵図」によると、萩藩大組士(おおぐみし)佐伯丹下(さえきたんげ)(125石)の屋敷であったことがわかる。
佐伯丹下は幕末期、直目付(じきめつけ)や撫育方仕組掛(ぶいくがたしくみがかり)、奥番頭役(おくばんがしらやく)など藩の要職を歴任、多年藩の財政整理や岩国吉川家との交渉に尽力した。
明治5(1872)年65歳で没するまで、この家が本拠であった。
その後、安富五三郎(やすとみごさぶろう)(通称:伊勢谷)の所有になり、親戚の久原房之助(くはらふさのすけ)が衆議院議員に立候補の時には選挙事務所になったこともある。
戦時中は九州大学名誉教授の永積純次郎が住み、戦後は萩中学校長の河内才三や、第六高等学校(現岡山大学)校長の金子幹太などが住んでいた。
屋敷は昔の状態がよく保たれており、映画のロケにも使われたことがある。
「直目付(じきめつけ)」・・藩士の職務等を監察する役。
「撫育方(ぶいくがた)」・・藩の別途会計を管理する役所
「奥番頭役(おくばんがしらやく)」・・藩主の側に仕え殿中の諸事一切を統括する役。
(現地案内板)
     
       
   広告     
     
   
  Home 山口県の旅 萩の旅