旅 瀬戸内(たびせと)

道後公園(どうごこうえん)・湯築城跡(ゆづきじょうあと) GoogleMap
       
    松山市街(道後公園より)   
     
  道後公園     道後公園展望台  
  道後公園(どうごこうえん)
道後公園は全体で約8.6ヘクタールあり、外堀を含め南北約350m、東西約300mで、中央部は海抜約70m(比高約30m)の丘陵部となっています。
外周は外堀で囲まれ、丘陵を取り巻くように内堀があります。
明治19年に設置された道後植物園を前身とし、明治21年に県立道後公園となりました。
昭和62年の道後動物園移転に伴い、昭和63年から発掘調査をしたところ、湯築城跡の遺構や遺物が数多く出土しました。
12年間におよぶ発掘調査によって、遺構として、道路、礎石建物、土塀などが検出され、遺物として、土師質土器、輸入陶磁器などの土器類や武具、建築用具の金属製品など、約25万点が出土しています。
湯築城跡の遺構は、全国的にみても、中世守護の城館としてまれに見る良好な状態で残っており、極めて貴重な遺跡であることが明らかになりました。
この遺跡を保存・活用するため、復元区域では、武家屋敷や土塁などの復元、出土遺物・遺構の公開を行っており、散策・休憩しながら楽しく歴史を学べる場としております。
(現地案内板より)

湯築城跡(ゆづきじょうあと)
湯築城は、二重の堀と土塁を巡らせ、その中に居住空間を持つ先駆的な「平山城(ひらやまじろ)」の形態をなす中世伊予国(現在の愛媛県)の守護河野氏の居城として、約250年間存続しました。
南北朝時代の初め頃(14世紀前半)河野通盛(みちもり)によって築かれたといわれています。
通盛の祖先には、12世紀末の源平合戦の際、水軍を率いて活躍した通信(みちのぶ)、13世紀後半の蒙古襲来の際活躍した通有(みちあり)がいます。
通盛は、それまでの河野氏の拠点であった風早郡河野郷(かざはやぐんこうのごう)(現在の北条市)からこの道後の地に移りました。
築城に関する文献は残っていませんが、河野郷の居館が寺(善応寺)になった時期や、忽那家(くつなけ)文書の記述などから、遅くとも建武年間(1334年〜1338年)には築城されたと推定されています。
河野氏は、その後讃岐から攻め入った細川氏との戦いに敗れ、湯築城は一時占拠されましたが、守護職とともに湯築城を奪い返しました。
しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家騒動(惣領職ーそうしょうしょくの承継をめぐる分裂)や内紛(家臣の反乱)を繰り返し、その地位は決して安泰ではありませんでした。
天正13年(1585年)、全国統一を目指す羽柴(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景(こばやかわたかかげ)に湯築城は包囲され、河野通直は降伏し、やがて湯築城は廃城となりました。(現地案内板より)
 

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