旅 瀬戸内(たびせと)    安芸国分寺跡 GoogleMap    
             
     
    安芸国分寺跡  
     
    真言宗御室派 安芸国分寺   真言宗御室派 安芸国分寺 本堂ー金堂ー   
  西条の酒蔵通りを主体に見て廻る予定であったが、この安芸国分寺歴史公園の発掘調査結果の説明があまりにも面白いのでついつい長居してしまった。
やはり、現地で、その地域の雰囲気や施設の大きさを体に感じることは歴史を知る上で非常に重要なことだと思った。
備前国分寺跡、備中国分寺跡なども訪ねているが、国分寺が置かれていた所は、何処も非常に素晴らしい雰囲気のある地域である。
真言宗御室派 金嶽山常光院 安芸国分寺
国分寺は、奈良時代の中頃、聖武天皇(しょうむてんのう)の発願によって国ごとに建立された官立の寺院です。
僧寺と尼寺があり、僧寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」といいます。
仏教の力で災いを取り除いて国内を安定させ、人々の暮らしを守るという目的のために荘厳(そうごんな)な寺院が建てられました。
安芸国分寺は、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)2(750)年頃には本尊仏を安置する金堂(こんどう)や僧侶(そうりょ)が修業を行う講堂(こうどう)が建ち、様々な法会(ほうえ)−法要ーが行われていたことが発掘調査から明らかになりました。
また、少し遅れて塔や僧房(そうぼう)が造営され、広大な境内の東側では、寺院の維持管理を行った施設ー大衆院(たいしゅいん)−や安芸国内の僧侶の育成や指導、法会の執行等を行った国師のための施設ー国師院(こくしいん)−も建てられました。
平安時代の中頃には、塔が消失し、僧房も建替えによって位置が変わりますが、金堂や講堂は、その後も屋根瓦の葺替えが行なわれているため、引き続いて建っていたと考えられます。
中世になると、この地を治めた大内氏や毛利氏によって庇護(ひご)され、伽藍(がらん)も整備されたようで、仁王門(市重要文化財)は、16世紀中頃のものです。
また、江戸時代には広島藩主浅野家の祈祷寺院として隆盛しました。
江戸時代後期に建てられた護摩堂(市重要文化財)は重厚な建物で、正面向拝(こうはい)には浅野家の家紋ー違鷹羽紋(ちがいたかのはもん)−が掲げられています。
宝暦(ほうれき)9(1759)年4月の火災で多くの建物が焼失しますが、その後18世紀後半から19世紀にかけて再建が進められ、宗教法人国分寺として現在まで法灯が守り継がれています。
                                 東広島市
(現地案内板) 安芸国分寺歴史公園案内図
東広島市指定重要文化財 木造薬師如来坐像 昭和53年11月15日指定
この薬師如来坐像は、本堂の厨子(ずし)に安置される安芸国分寺の本尊です。
頭部には、平安時代前期の作風が色濃く残り、顔は面長、あごをくっきり表し、大粒の螺髪や眼を彫りだしています。
宝暦(ほうれき)9(1759)年に頭部を残して焼失したため、翌年京都の仏師、山口伊織豊房(やまぐちいおりとよふさ)が胴体を造りました。
厨子の両側には日光(にっこう)・月光菩薩立像(がっこうぼさつりゅうぞう)が安置されています。(秘仏のため開帳時以外は拝観できません)

                        東広島市(現地案内板)
 
     
         
   安芸国分寺 薬師堂   東広島市指定重要文文化財 安芸国分寺 護摩堂    東広島市指定重要文文化財 安芸国分寺 仁王門    
  広島県指定重要文化財 木造薬師如来坐像(もくぞうやくしにょらいざぞう) 昭和60年3月14日指定
ヒノキの寄木造(よせぎづくり)の仏像で、薬師堂内に安置されています。
高さ127pの半丈六(はんじょうろく)の坐像で、顔が大きく、頭には大粒の螺髪(らはつ)が彫り出されています。
胴部は薄肉ながら微妙な立体感があり、両肩に巻き付けた袈裟(けさ)を通肩(つうけん)に着ており、左手には薬壺(やっこ)を持っています。
平安時代の作ですが、度重(たびかさ)なる火災のため、表面は著しく炭化しています。
明和(めいわ)5(1768)年に一度修理が行われ、炭化面に和紙が張られましたが、傷みが激しくなったため平成18(2006)年に解体修理が実施され、全身を和紙により保護し、往時の姿を今に伝えています。
                              東広島市
(現地案内板)    
 
         
   吽形金剛力士像像   阿形金剛力士像像     鐘楼  
         
   史跡 安芸国分寺塔跡    安芸国分寺 井戸跡   安芸国分寺 板塀跡   
  安芸国分寺の発掘調査
安芸国分寺では、昭和7(1932)年の塔跡を最初に、昭和44〜46(1969〜1971)年の広島県教育委員会による伽藍(がらん)配置の確認調査、平成11(1999)年からの保存整備事情に伴う調査と、安芸国分寺が歩んできた歴史を明らかにするため発掘調査を継続的に実施してきました。
その結果、金堂(こんどう)や講堂(こうどう)等の主要堂塔だけでなく、寺院活動を支えた各種施設の存在が明らかになりました。
なかでも、奈良時代に寺院や僧侶(そうりょ)の指導を行うために都から諸国に派遣された国師の仕事場である国師院が、全国で初めて国分寺の中で確認されました。
さらに、寺院東端のゴミ捨て穴からは、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)2(750)年銘のある木簡(もっかん)や法会(ほうえ)の名称が記された墨書土器(ぼくしょどき)等、全国的にみても数少ない国分寺運営の時期を示す遺物が出土しています。
                    東広島市
(現地案内板)    
 
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   安芸国分寺 講堂跡   安芸国分寺 僧房跡    安芸国分寺 国師院建物跡   
         
  安芸国分寺 東辺の築地塀     安芸国分寺 多くの遺物が出土したゴミ捨て穴    安芸国分寺の活動を支える建物群跡  
    遺跡を活用するために
この土地で営まれた人々の暮らしの跡を見つめ、活かしていくことは、地域の歴史や私たちの祖先の生き方を知ることであり、さらには未来を考えることにもつながります。
遺跡にたたづみ、悠久(ゆうきゅう)の時の流れに想いをはせ、先人たちの技や文化を追体験していただくため、地下の遺構(いこう)−昔の生活の跡ーを大切に保存しながら、安らぎを実感できる歴史公園として安芸国分寺を整備しました。
奈良時代に建立された安芸国分寺は、現在まで法灯を守っていますが、整備にあたっては、発掘調査の成果をもとに金堂(こんどう)や講堂(こうどう)等の主要堂塔が整備された8世紀後半から9世紀初めの建物跡を中心に遺構表示を行っています。
金堂ー本尊仏を安置する建物ー、講堂ー経典の講義を行う建物ー、僧房(そうぼう)ー僧侶(そうりょ)が日常生活をおくる建物ーは、基壇(きだん)−建物の基礎ーの石積みを再現し、講堂では、柱の位置に礎石(そせき)−柱の土台となる石ーを配置しています。
国分寺において全国で初めて確認された国師院建物(こくしいんたてもの)は、板張りの床を復元し、建物の大きさを表示しています。
さらに、寺域を囲んでいた東西の築地塀(ついじべい)の位置は、サザンカ等の生垣で表示しています。
なお、この休憩舎の周辺に建っていた建物群については、今回の整備の中心となる奈良時代の建物跡だけでなく、次の時代である9世紀から10世紀にかけて大衆院(たいしゅいん)ー修理所や倉など寺院の宗教活動を支えるための施設群ーを構成したと考えられる建物跡を含めて表示しています。また、安芸国分寺の発掘調査では、木簡等の木製品が多量に出土しています。
これは周辺の地下水が高く、地下水に包まれていることで木材の腐食(ふしょく)が防がれたためです。
公園内には、今も多くの木製品が地下に眠っているため、整備にあたっては、雨水が浸透しやすいように盛土と芝生で地表面を仕上げています。            東広島市
(現地案内板)    
 
   東西方向に延びる溝    

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