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   黒田官兵衛ゆかりの地 GoogleMap  
     
   
  竹田城跡   
  黒田官兵衛ゆかりの地
2014年のNHK大河ドラマが「軍師官兵衛」と決定さている。
大河ドラマを見る時、一度行ったことがある所であれば、そのドラマにすごく親近感を持つことができるし、その地域の雰囲気もわかるのでよりドラマを楽しむこともできる。
黒田家発祥の地は、奥琵琶湖の長浜市
木之本町黒田と伝えられてれている。
六代高政の時、備前福岡へ移り住んだとされている。
黒田高政の子重隆の代になって播磨に移り、
御着城主の小寺氏に仕え、姫路城代を任される。
黒田官兵衛は、重隆の子職隆(もとたか)の子として天文15(1546)年11月29日に姫路城で誕生している。
なお、上記黒田家の系譜は、福岡藩に仕えた儒学者・貝原益軒が編纂した「黒田家譜」によるものである。  
 黒田官兵衛略歴
 
     
   
  御着城址  
  御着城址 GoogleMap
御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨の守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。
永正16年(1519)小寺政隆が築城、則職、政職と承継され天正6年(1578)か7年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡されたとされる。
黒田官兵衛の祖父重隆は、備前福岡から播磨に移り、
御着城主の小寺氏に仕え、姫路城代を任される。
 
     
   
  黒田家廟所ー長浜 木之本ー   
  黒田家廟所ー長浜 木之本ー GoogleMap
黒田家の由来
筑前・福岡五十二万石・黒田藩の始祖は、当地の御廟に祀られている佐々木源氏(近江源氏)の流れをくむ黒田判官・源宗清(別名宗満)公であり、この地・近江国伊香郡(木之本町)黒田村に住み、湖北の荘園の領主として、黒田判官と称した。
黒田村の中央の小字・構(かまえ)と称するこの一町角が往年の構屋敷、即ち黒田判官の邸跡である。
黒田判官・宗清公(弘安元年=1278年・延文2年=1357年病没・享年79歳・法名道法)より数えて6代目・高政公の時代、永正8年=1511年山城船岡山の戦いの後、備前邑久郡福岡村に移り住むまでの約200年間黒田氏は6代にわたりこの地に居を構えていた。 
 
     
   
   黒田家墓所  
  黒田家墓所ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
GoogleMap
黒田家は、六代高政の時、備前福岡(現岡山県瀬戸内市長船町福岡)へ移り住んだとされている。
その子重隆の代になって播磨に移り、姫路、広峯神社の護符に黒田家伝来の目薬を付けて配布することで財をなし、
御着城主の小寺氏に仕え、姫路城代を任さることになる。
備前長船の福岡、妙興寺には、黒田家の墓と伝わる墓所がある。
 
     
   
  広峯神社   
  広峯神社 GoogleMap
黒田官兵衛の祖父、黒田重隆は、備前福岡から姫路に移ったのち、広峯神社の御師(おし)ー参詣者を案内し参拝や宿泊の世話をする者ーが配る神符とともに黒田家秘伝の目薬を売って財を成し、御着城を中心に西播磨で大きな勢力を持っていた小寺家に仕えて姫路城の城代となった。
 
     
   
   姫路城  
  姫路城 GoogleMap
黒田官兵衛孝高は、天文15(1546)年11月29日職隆の嫡子として、この姫路城の地で生まれている。(その頃の姫路城は、池田輝政が築いた、現存の規模の城となる前のもので、赤松家の小規模な城塞であったものを、官兵衛の祖父重職と父職隆が、整備した中世城郭であった)
幼名は万吉、母は明石氏
 
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   黒田家廟所  
  黒田家廟所ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
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御着城址の一角にある。
官兵衛の祖父重隆と生母明石氏を祀る廟所。
黒田家は、重隆の時御着城主小寺家の家老となり、出城であった姫路城の城主となった。
姫路城主は、重隆の子職隆(もとたか)、官兵衛孝高と続いたが天正8(1580)年羽柴秀吉の播磨平定の時、官兵衛は姫路城を秀吉に譲り、父職隆と共に国府山城(妻鹿)に移る。
この墓所は、享和2(1802)年黒田十代藩主斉清により資材を九州から運んで再建された。
 
     
   
  書写山円教寺  
  書写山円教寺 GoogleMap
三木城の別所長治が反旗を翻した時、羽柴秀吉は姫路城にいたが、西の毛利氏との間に挟まれたため、黒田官兵衛と話し合って、三木城包囲の為の援軍を竹中半兵衛を通じて信長に依頼し、本陣を書写山に移して西の毛利の攻撃に備えるとともに、三木城攻めの指揮をとった。
この時羽柴秀吉は、書写山に五百石を寄せている。
 
     
   
  黒田職隆廟所   
  黒田職隆廟所(くろだもとたかびょうしょ) GoogleMap
俗に「筑前さん」と呼ばれ、妻鹿筑前さんの五輪塔で知られる。
黒田職隆は御着城主小寺氏の重臣・重隆の子で、黒田官兵衛孝高(如水)の父である。
羽柴秀吉の播磨侵攻にあたり、黒田職隆・孝高親子は天正八年(1580)姫路城を秀吉に譲り、妻鹿国府山城(妻鹿城)に移ったといわれる。
職隆は、天正13(1585)年8月22日没62歳。
官兵衛の祖父重隆は、この地の豪族妻鹿氏の娘を娶っている。
 
 
     
   
   姫路文学館  
  姫路文学館ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
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姫路を中心とした、播磨ゆかりの文人たちを顕彰し、資料の調査研究を行うとともに、文学活動の拠点となることを目的として建設された。
南館には、播磨灘物語を書いた司馬遼太郎記念室がある。
 
     
   
   播磨国総社  
  播磨国総社と黒田家、羽柴秀吉 
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永禄10(1567)年ー黒田職隆の命により拝殿・御神門を再建。
屋根も板葺から瓦葺に葺き替え。
天正9(1581)年ー羽柴秀吉が姫路城を築城する際現在地に遷座。
 
     
   
   播磨国分寺  
  播磨国分寺と黒田官兵衛 
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上月城の救援に行った羽柴秀吉軍の隙をついて、別所勢が姫路城を攻めようとした。
このため、黒田官兵衛は国分寺にまで引き返して別所勢を撃退したと伝えられている。
 
     
   
  松原八幡神社  
  松原八幡神社ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
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天正元(1573)年、羽柴秀吉の三木城攻めの際、松原神社が、織田方、毛利方のどちらに味方するか、態度を明確にしなかった為、別所長治の怒りにあい火を放たれた。
羽柴秀吉の播磨平定後、秀吉もその時の松原神社の態度を怒り城南の芝原(現在の姫路市豊沢町)に移転する様に命じたが、黒田官兵衛は、松原が由緒ある地として現地での存続を懇願した。
その結果、社領を60石に減じられながらも移転は免れることが出来た。
その後、天正12年頃(1584)当社の僧・快祐が社殿を復興した。この時官兵衛も社殿を寄進している。
 
     
   
   妻鹿城址  
  国府山城址妻鹿城址GoogleMap
黒田官兵衛の祖父重隆は、この地の豪族妻鹿氏の娘を娶(めと)っている。
天正8年(1580)三木城主別所長治を滅ぼした豊臣秀吉は三木城を居城とした。
これに対し、官兵衛孝高は三木城が戦略的に不備であることを進言し、自らの居城である姫路城を秀吉に譲り、天正元(1573)年、父職隆(もとたか)と共に国府山城に移った。
天正13年(1585)職隆が没した後は、廃城となっている。
 
     
   
  史蹟黒田官兵衛青山古戦場跡   
  史蹟黒田官兵衛青山古戦場跡 
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永禄12年(1569)8月9日、小寺氏の出城姫路城を攻めようとした播州龍野城主 赤松政秀と黒田官兵衛との古戦場跡。
官兵衛は、秘策を尽くして不意撃ち、挟み撃ちし敵の軍勢を追い詰めてこの地まで撃退、この地が「決戦場」となった。
この戦いで敵の首七十をあげた官兵衛は、奇襲の作戦技もあって有名になった。
「智将 黒田官兵衛」といわれるその兆しを見せたのがこの青山合戦であった。
 
     
   
    心光寺  
  心光寺黒田官兵衛ゆかりの地ーGoogleMap
御着城主小寺氏の菩提寺で梨原寺という寺名であった。
永禄年間に黒田氏の菩提寺となりこの時に心光寺と改称、官兵衛が姫路城主となった時、姫路城内に移転。
その後慶長13年池田輝政公の時姫路城内から坂田町に移転。
昭和の時代になって国道2号線の貫通や戦後の復興事業により寺地が減少したため現在地に移転。
 
     
   
   英賀神社  
  英賀神社 GoogleMap
天正8年2月(1580年)、羽柴秀吉は英賀城攻略に際し、特に当社に除火の令を出して敬神の誠を致したという由緒ある神社。
英賀神社 本殿の後、一の宮社・塩竃社・琴平社が祀られている場所には英賀城の土塁跡が残っている。
 
     
   
  英賀城本丸之跡碑   
  英賀城本丸之跡碑 GoogleMap
英賀城は、南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯で、守るのに大変つごうのよい城であった。
天正8年(1580年)秀吉に滅ぼされるまで約140年間三木氏は、的形から室津の間を中心にその周辺を支配し、一大勢力を誇っていた。
城内には本丸・二の丸をはじめ、一族が大きな屋敷を構えていた。
また、城下には、英賀五坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町として大いににぎわった。
今では、英賀神社本殿裏と英賀薬師(城主の墓所・宝寿寺跡)の北側にその史跡が残っているのみである。
 
     
   
  香山城跡  
  香山城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
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鎌倉時代から香山荘地頭職であった香山氏の居城。
嘉吉の乱(1441年)で城は一度落城するが、文明3年(1471)に秀氏が城を再興。
羽柴秀吉が宇野氏(山崎・長水城)を攻めたときに城主秀明は宇野氏に属し、香山城は秀吉軍の黒田官兵衛に攻められ、天正8年(1580)4月27日に落城する。
司馬遼太郎の「播磨灘物語」には官兵衛の父小寺兵庫助の初陣での手柄の城として香山城が登場。
 
     
   
  篠ノ丸城址   
  篠ノ丸城址 GoogleMap
築城:赤松円心
宇野政頼の時、天正8年(1580)、羽柴秀吉の猛攻により落城。
天正8年(1580)〜黒田官兵衛が羽柴秀吉から宍粟郡を与えられ領有。
これには、ー天正12年(1584)〜との説もあるー
その後官兵衛は天正15年(1587)に豊前国に移封。
 
     
   
   置塩城跡  
  置塩城跡 GoogleMap
室町時代に播磨守護職であった赤松氏の居城。
標高370mの城山の山頂部に位置する播磨最大規模の山城跡。
天正5(1577)年、赤松則房の時、播磨平定のため侵攻してきた羽柴秀吉に殆んど戦うことなく降伏。
その後、天正8(1580)年羽柴秀吉による城破霊が出され廃城となった。
 
     
   
   上月城跡  
  上月城跡ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
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上月合戦
戦国時代の天正5年(1577)〜6年に、全国統一を目指し中国地方へ侵攻する織田勢と中国の毛利勢との間で、上月城を舞台に行われた合戦。
天正5(1577)年11月、羽柴秀吉の侵攻に対して、毛利方についていた時の上月城主赤松政範は、隣の福原城に次いで滅ぼされてしまう。
播磨灘物語では、上月城主は上月政範、その妻は官兵衛の妻の姉妹となっている。官兵衛も竹中半兵衛と共に参戦。
羽柴秀吉は、上月城に尼子勝久、山中鹿之介主従を入れて守らせるが、宇喜多勢に攻められ撤退、宇喜多は之を上月十郎景貞に守らしたが再び秀吉軍により落城したとされる。
再度上月城に入った尼子勝久、山中鹿之介は、天正6(1578)年4月毛利方の小早川、吉川らに包囲される。
支援に向かった秀吉軍は、高倉山に陣を置くが、別所長治寝返りのため、織田信長の命により急遽三木城攻略に動き上月城より兵を引くこととなる。
上月城を死守しようと留まった、尼子勝久と山中鹿之介は、2ヶ月間の籠城の末、尼子勝久は自刃、山中鹿之介は、備中の毛利輝元の所へ護送の途中、高梁川の合の渡しで斬殺される。
 
     
   
   佐用城跡ー福原城跡ー  
  佐用城跡ー福原城跡ー GoogleMap
中世に築かれた代表的な「平山城」で、南面に川、背後に山の「城堅固」の立地で、空堀、防塁、馬落としなどよくその原型をとどめている。
戦国時代末期、東西の勢力拮抗の狭間で、西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していたが、天正5年(1577)11月、羽柴秀吉との攻防により落城しその役割を終えた。
この時、黒田官兵衛が、佐用城攻めの先陣を勤め、取り囲んだ城の一方にわざと逃げ口をつくる「孫子」の兵法を平塚藤蔵に教え、城主福原則尚を討ち取っている。
播磨灘物語に書かれている、この時の竹中半兵衛、黒田官兵衛、竹森新次郎らの手柄の譲り合いが非常に興味深い。
福原則尚は城脱出に成功したが、多くの城兵の討死を知り、菩提寺、福円寺で自刃したとの説もある。
後世、土地の人々によって、時の城主福原藤馬允則尚の首級を祀るため城跡に一社が造営され「福原霊社(俗に頭(こうべ)様)として今に崇敬されている。
 
     
   
  志方城跡   
  黒田官兵衛ゆかりの地 GoogleMap
志方城跡ー観音寺ー別名:観音寺城・船原城・市易城ー
黒田官兵衛の妻・光 幸圓の生まれた城。
黒田官兵衛は一夫多妻が一般的であった戦国時代、側室を持たず、光ただ一人を愛したといわれている。
嫡男は後の福岡城主 黒田長政
この城の城主、櫛橋家は、藤原氏の末裔で伊朝を元祖とし代々赤松氏の家臣であった。
伊朝より五代の孫櫛橋左京亮則伊は、赤松政則に仕えて大いに重ぜられ祖父の例にならって播備作三国の財産出納の役をつとめ文明13年(1481)志方、天神山に城を築き、ついて明応元年(1492)この地に志方城を築いた。
以来伊家、伊定と父子三代88年間続いたが、天正7年8月10日羽柴秀吉の攻略にあって落城した。
播磨灘物語では、志方城は織田軍に攻められ落城するも、秀吉を通じて官兵衛が命乞いをしていたため、櫛橋左京亮は命だけ許されている。
そして、後に官兵衛は、一族を家臣団に組み入れ厚く遇したと書かれている。
 
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   三木城跡  
  三木城跡 GoogleMap
三木城は室町時代の後期、東播磨八郡の守護代となった別所則治によって、明応年間(1492〜1501)に築城。
五代城主長治の時織田信長に対して反旗を翻した。
羽柴秀吉の10ヶ月に及ぶ兵糧攻めにより、天正8年(1580)1月17日、城兵の命を助けることを条件に、長治一族の自害によって開城。
合戦後は、秀吉の家臣が城代として在城し、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後は池田輝政が姫路城主となり、その支城として存続。
大坂夏の陣の直後、江戸幕府が打ち出した一国一城令によって元和3年(1617)に廃城となった。
 
     
   
   有岡城跡ー伊丹城跡ー  
  有岡城跡ー伊丹城跡 GoogleMap
信長に背いた荒木村重を説得するために、蜂須賀正勝、前野長康に続き、最後に有岡城へ赴いた黒田官兵衛は、城中に入ったところで捕らえられ、土牢に約1年間幽閉され、天正7年(1579)10月16日、落城によって奇跡的に救出された。
播磨灘物語では、この時官兵衛は、荒木村重に寝返った御着城の主である小寺藤兵衛の、村重に官兵衛を殺させようとする経略に引っ掛かり、村重の有岡城へ行ったことになっている。
荒木村重は、藤塀衛の殺してほしいという意向を受け入れず官兵衛を牢にぶち込んだのである。
信長は官兵衛が戻ってこないのを、官兵衛も村重方に寝返ったとみて、人質に取っている官兵衛の子松寿丸(後の黒田長政)を殺すように竹中半兵衛に命じた。
竹中半兵衛は、黒田官兵衛が寝返りをするような人物ではないことを信長に説明するが聞き入なかった。
そこで、半兵衛は、信長には松寿を殺したと言って、秘かにその領地美濃の奥菩提という居城に隠している。
 
     
   
  竹中半兵衛の墓   
  竹中半兵衛の墓 GoogleMap
天文13(1544)年〜天正7(1579)年。戦国時代の部将で初名は重虎、のちに重治、別名半兵衛。
竹中半兵衛重治は、初め斎藤龍興に属し、後に織田信長に従い、秀吉と共に各地に転戦し殊勲を立てる。
黒田官兵衛と共に戦国時代を代表する軍師として知られ、「両兵衛」「二兵衛」と称された。
三木城攻めの際中、平井山の陣中で胸を病み、一時は京都に移って療養していたが、固着した戦況を心配、陣中に帰ってきて天正7年6月13日、36歳の若さをもって永眠。
 
     
   
   黒田官兵衛の里 西脇  
  黒田官兵衛の里 西脇説 GoogleMap
通説として、黒田官兵衛の先祖黒田家発祥の地は、長浜 木之本ーと云われてきた。これは、福岡藩に仕えた儒学者・貝原益軒が編纂した「黒田家譜」によるものである。
しかし、播磨地域には、黒田家の発祥の地が西脇市にある黒田庄町黒田であることが古くから語り伝えれており、特に平成23年に、この黒田にある荘厳寺で、黒田氏の発生から滅亡までの歴代が記された「荘厳寺本黒田家系図」が発見されてからは、黒田家発祥の地が西脇であるという説を研究する機運が盛り上がっている。
 
     
   
  備中高松城水攻め跡   
  備中高松城水攻め跡GoogleMap
織田信長の命で毛利攻めに向かい、備中高松城で膠着状態になった戦況を打破する為羽柴秀吉は高松城を水攻めにしようと堤防を築き水をせき止めようとしたがうまくせき止められなかった。
この時、土嚢を積んだ船の底に穴をあけて船ごと沈めるように献策したのが黒田官兵衛であり、また、この水攻めの最中、本能寺の変が起こり、織田信長が横死するが、秀吉に対して毛利との和睦と明智光秀の討伐を献策し、中国大返しを成功させたのも官兵衛と云われている。
 
     
   
  鳥取城跡   
  鳥取城跡附太閤ヶ平 国史跡 GoogleMap
16世紀半ばといわれる成立以降、天正8・9年(1580・81)に羽柴秀吉の侵攻までの山頂中心の中世城郭と、それ以降江戸時代にかけての山裾を中心に石垣で構成された近世城郭という二つの顔を持つ。
また、秀吉側の本陣であった太閤ヶ平を中心とする中世城郭の分布は、全国でも屈指の規模を誇る。
近世城郭は、池田光政により32万石の城として整備され、寛永9年(1632)池田光仲が藩主となり鳥取藩として確立した。
(現地案内板)
 
     
   
  太閤ヶ平  
  太閤ヶ平ー本陣山ーGoogleMap
鳥取城 山上ノ丸 本丸跡から北東約1.5qの所に見える山を本陣山(標高252m)ー太閤ヶ平ーという。
天正9年(1581)、羽柴秀吉が、鳥取城を兵糧攻めした際に、この山の頂きに本陣を構えたことからそのように呼ばれてきた。
本陣部分は、太閤ヶ平とも呼ばれており、巨大な土塁や空堀(からぼり)が当時のまま残されており、戦闘の際に築かれた臨時的な土の城としては日本最大級と評価されている。
                           平成24年9月 鳥取市教育委員会(
現地案内板を参考)
 
     
   
  随願寺   
  黒田家と随願寺 GoogleMap
官兵衛の叔父黒田高友はこの随願寺、地蔵院で休夢と称する僧侶であった。
和歌に秀で、秀吉に仕える。明石宗和の息女である母とともに文人官兵衛に大きな影響を与えている。
天正元年(1573)、別所長治に攻められ全山を焼失。同13年に羽柴秀吉が再興した。 
  
 
     
   
   有馬温泉  
  有馬温泉ー黒田官兵衛ゆかりの地ー
GoogleMap
播磨灘物語によると、黒田官兵衛は、有岡城の土牢に1年間ほど幽閉され、天正7年(1579)10月16日、落城により救出された後、しばらくの間、有馬温泉で動かなくなった左足の傷を癒した。
また、有馬温泉には、秀吉も戦傷を癒す為、あるいは、ねねを連れて湯治にしばしば訪れている。
そして、戦乱や大火で衰退した有馬の改修を行い、湯山御殿(太閤の湯殿館に湯船の遺構が現存)を建てた。
写真は、ねね橋。
 
     
   
   出石城跡  
  出石城と黒田官兵衛
出石城が作られる前には、山名氏によって築城された有子山城が背後の有子山山頂にあった。
しかし、築城後わずか6年後の天正8(1580)年に天下統一をねらう織田軍によって城は陥落、城主は因幡に出奔している。
この時、黒田官兵衛は何らかの形でかかわっているのではないだろうか。
江戸時代に入り、ふもとに出石城が築城され、有子山城は廃城となっている。
 
     
   
  龍野城  
  龍野城 GoogleMap
TEL0791-63-0907 
兵庫県たつの市龍野町上霞町128−1
龍野城は、鶏籠山の山城と後年、山麓につくられた平山城との二期に分かれ、山城は約500年前赤松村秀によって築かれ、山麓の平山城は寛文12年に信州飯田から脇坂安政公が移ったときに築城された。
本丸御殿 
開館時間:8:30〜17:00(入館16:30まで) 
休館日:毎週月曜日 
入館料:無料
交通:JR姫新線龍野駅より徒歩約15分
神姫バス龍野バス停より徒歩約5分
山陽自動車道龍野ICより車約5分
龍野城と黒田官兵衛
龍野城主が赤松政秀の時、政秀は、播磨平定の為、黒田家を味方に付けるよう様々な調略を試みるが、小寺政職の家老である、官兵衛の父職隆は、頑として受け入れなかった。
そうした時、母の病気を治す為に龍野城下の龍神池まで「おたつ」と共に薬草を採りに行き、赤松に捕らえられ人質にされようとするが、父職隆に救出される。
その後、官兵衛が成長してからの永禄12(1569)年8月9日、政秀は姫路城を攻撃しようとするが、官兵衛の秘策により、青山の地での合戦で敗退する。「智将 黒田官兵衛」といわれるその兆しを見せたのがこの合戦であった。
(NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」・青山古戦場現地案内板などを参考)
 
     
   
   室津  
  室津 GoogleMap
室津は、「此の泊 風を防ぐこと 室の如し」 (播磨国風土記)と記されているように古来より天然の良港である。
奈良時代には僧行基によって摂播五泊の一つに定められ、江戸時代には参勤交代の西国大名の上陸地として大いに栄え「室津千軒」といわれた。
また、井原西鶴や谷崎潤一郎などの小説の舞台になり、多くの悲話や伝説を秘めた歴史と旅情の土地であり、美しい瀬戸内の風光に恵まれた港町である。
(現地案内板を参考)
室津と黒田官兵衛
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、黒田官兵衛の初恋の相手、「おたつ」が、黒田職隆の養女として室津城の浦上家に輿入れすることになり、その婚礼の日、龍野城主赤松政秀が夜襲し「おたつ」はその犠牲となってしまう。
このことは、室津民族館カタログでは「室津の歴史」の中で、「1566年(永禄9年)、浦上政宗の子宗景の婚礼の夜、龍野城主 赤松政秀が夜襲し城を落とし、以後室山城は廃城となる。」との記載があり、婚礼の夜に赤松政秀の夜襲があったという歴史的事実をうかがい知ることが出来る。
    海駅のまち「室津」観光案内版
 
     
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